批評ゼミ通信講座|選抜評論:北脇昇の様々な手法・作品に見る、複数の顔たち/SHIORI SHIINA
北脇昇の様々な手法・作品に見る、複数の顔たち
SHIORI SHIINA
北脇昇の様々な手法
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意識は多様な傾向に、イズムと意欲は——北脇に限らず——その状況を浮き出そうと油彩技法へと変換される。筆跡は葛藤と矛盾に具体的に示されているはずだ。作家自身の過去の手法、或いはスタイルは後から結びつくことがある。それらのイメージと精神が、自由な解釈を生じさせる。その先に見えてくる方向により変化させる絵画、物語る芸術は、どれもこれも極めて奇妙な形を連想させるのである。とはいえ、漠然と不一致を示すにせよそれらを取り上げた場合、どの方向にも全く異なる意味を持つことを確かめてみるべきであろう。
初期のシュルレアリスム的作品である≪断層面≫(1937)では、左右に反復するようなストライプと、画面の左側に標識のようなものが描かれている。ここでは記号の意味を失うことが特徴的だ。作品の制作は、後半では題名との絵具を一致させていく。また「カラー・コントラスト」では様々な補色の関係をコラージュで実験した形跡がある。ここでは絵画において、色がどのような効果を生むのかを実験するともに作品化している。*1
翌年には、明るいモチーフによって生み出された数学の絵画を感性化しようとした。ここでは有機的なモチーフが動き出すような感覚を追っていたといえるであろう。作品の魅力的な強度、質感と能動的なリズムによる活気と形は、動きつつ情感を作り出す。時間と表現形態を描くには、絵と図式の問題における技法習得とは、別の過程が必要だったはずだ。
北脇が考案し行われた集団制作「浦島物語」(1937)。ここでは、集められた資料図版(ノートや写真)と作家によって異なる主題で絵画が描かれ、まるでコラージュのように見える。この技法はマックス・エルンストのフロッタージュの影響だろうか。上下左右がはっきりと分かれておらず、大きさや遠近感が失われて描かれているのも特徴である。広範囲よる実験は、即物的な素材や植物などを多く残し様子が捉えられた。顕微鏡で拡大したようなイメージの≪素描≫(制作年不詳)では、アメーバのような触覚的な形が見られる。同時期に制作した≪独活(ウド)≫ (1937)では、ウドの擬人化を描写するだけではなく、日常的にみるものをひっくり返す構図や、実と虚の断片を確認することができる。シュルレアリスムの「優雅なる屍体」(意図的ではない無意識の内容)が持つような幻想的でユーモアのあるモチーフを結び付けていた。*2
*1北脇のノート、スクラップブック
*2巌谷國士『シュルレアリスムとはなにか 超現実的講義』筑摩書房、2002年、45-57頁。幻想が展開するのではなく、オブジェたちが生起する。知性が何を語るか知り、精神がひそむ背後と形があらわになっていない物の側面を表している。
作品に見る、複数の顔たち
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これらの内から描かれる視覚的要素は、時により別なものへと見えてしまう。この創造力には、北脇の絵画を理解する過程が制作とともに必要であった。つまり何らかのきっかけに絵画化する技法は不可欠なものであろう。
連続的に描かれた「観相学シリーズ」1938年から集中的に構成が練られている。北脇展の図録とともに載っていた「虚妄の絵画」(『アトリエ』1938年12月)「今日目にする絵画構成の殆ど全てが、非対称的な偏在的な構成に終始してゐる」と触れられた。画家はミクロな存在にも「腔腸動物や棘皮動物の寧ろ作為的な形態や、細胞の減数分裂の秩序」と言葉を与えている。
北脇がシュルレアリスムに触れてから、動物や物、家やアヒル、猫など組み合わせ、顔を構成するだけではなく、技法を求め、組み合わせ、それぞれの形が見えてくる。また、マックス・エルンスト≪ヤヌス≫(1973)には腹部に亀と蛙が扱われている。*1その彫刻は、コラージュや模様を写し取った形が見られ、その視点は再構成との間に形態が生み出されてきた。
合わせ鏡のような空間を作り出す≪デカルコマニー A≫≪デカルコマニー B≫≪デカルコマニー C≫(1938)は、モノクロームで描かれた。*2装飾のない曲線は、表と裏が均一に浮かび上がり視点を合わせない。そうした動きは、流れる時間軸に膜を通して視点を浸透させる。≪作品(顔)≫(1938)では人工的な光がスポットライトのように当てられた。この装飾は左右対称に横顔が正面の顔に見えてくる。そうしたつながりは連続的に描かれ、作品は一つの焦点と流れを出現させる。そればかりだけではなく、顔と顔が認識しあう時間上にいくつもの働きに注目した。
一枚のデカルコマニーがイメージを生み出す内在性が前提とあるが、認識が可能になるということは決して珍しいことではない。ここにはイメージが無意識な受動で生成され、感覚や物質は想起に委ねられている。つまりモチーフのない、絵具の表情だけを集中的に描くことは、オブジェとの恒常的な誤りやすさの存在をあらわそうとした。
北脇のシュルレアリスムの絵画は、謎めく題名と空間にユーモアの関係が与えられる。つまり過去の作品から笑いと反復をはっきりと認識したようだ。ここでは同時に造形的な言葉との組み合わせがともに成り立つ。
一方、≪作品≫(1938)では浮き出す輪郭と視覚的な反転が強い緊張感で描かれている。なぜならば北脇の作品には、芸術と画家の精神生活を分けることなく繰り返し描かれているのである。≪独活(ウド)≫(1937)から≪鳥獣曼荼羅≫(1938)には、まなざしを光らせユニークに伝える二つの側面を持つ。そのスタイルは知的な補償により、過程は絵の完成度に達することもある。また、顔が見えてくる挿絵のような解説図式は非個性をあらわすためのこころみがある。それらの絵は複数のイメージによって作品が成立している。*3画家はどの作品にも意図があるように描きこみ、鑑賞者は見ることで知ることの遅れを認識する。これは絵ならはではないだろうか。
*1マックス・エルンスト(1891年ドイツ/1976年フランス)画家、彫刻家。
グラッタージュなどの技法も取り入れ動物や人物など絵を描く。
≪ヤヌス≫(1973)エルンストは写実的な表現ではなく、親しみやすい表情を制作している。戸口の守り神。
*2デカルコマニーは乾いてない絵具に転写するシュルレアリスムの技法の一つ。
偶然的な形がみられることが特徴。
*3中村義一『日本の前衛絵画 その反抗と挫折——Kの場合』美術出版社、1968年、
88‐89頁。画家でありながら文章を書くことは対象を追うだけではなく、その独自の絵画観は、自己との芸術を追求することで別の存在に見えてくる。意図的に無意識にみえてくる描法と構図は、眼に触れられないオブジェたちを構築した。
北脇昇 《断層面》 1937年
北脇昇 《独活》 1937年
北脇昇 《素描》 制作年不詳
北脇昇 《デカルコマニー A》 1938年
北脇昇 《デカルコマニー B》 1938年
北脇昇 《デカルコマニー c》 1938年
北脇昇 《作品(顔)》 1938年
北脇昇 《作品》 1938年
北脇昇 《鳥獣曼荼羅》 1938年