蜘蛛と箒のレビュー・プロジェクト:橋場佑太郎評

文:橋場佑太郎

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2023年6月11日

水戸の美術館から東京までの帰り道に高速バスを使って帰る。バスに乗ってから展示の解説文を複数にする方法とテーマとの相性を考えながら、アプリにダウンロードしていた映画をみた。高速バスでの過ごし方は音楽を聴いて寝るなど、人によって様々な選択種があり、その中から映画をみるのを選び取り、結果的にそれが展示の輪郭を辿る方法を取っていた。映画はブランドン・クローネンバーグの『ポゼッサー』という映画であり、他人の身体に入り込み、殺人を働く主人公によるSFノワールである。主人公のタシャは女性であるのだが男性の身体に入り込み、意識を操作し、絶命させ、ミッションを終える。そして、タシャについての描写は、離婚した夫が「危険な存在」と言いながらも、何度か会う存在という伏線のみ残され、あのラストに向かい、というとても限られた人物描写によって映画が構成されている。そういった描写をみながら水戸の展示について考える。あの展示に出品されていた石内都の「mother」シリーズは、母親という属性でもありながら、1人の女性という属性でもあるという多義性について考えさせられたりする。ここで、映画についての話に戻ろう。映画のテーマについて考えたとき、誰の身体であり、誰の意識なのかという問いが常に設定されている様に受け取った。遠隔操作によって、絶命させられる他者(主人公の名前がタシャであるのも示唆的)の身体が入れ物となっている近未来を描く手法は、どこか心の問題について考えさせられる。次々と他人の意識を操作しながら殺人するミッションを与えられるタシャは、常に苦痛を生じながらも絶命して終わる。そして主人公のタシャには、感情の揺らぎについての描写がいくつかあり、遠隔操作をするためのユニットに搭乗し、そこで資産家を狙ったときに元の身体、タシャの身体に戻れない。その戻れなさについて、これはタシャの感情なのではないのかと考えてしまった。更に踏み込んでみると、AIという存在は苦痛を何で処理するのだろうか、それはエラーなのかという疑問であった。もし、遠隔操作に搭乗する人物がタシャではなく、AIであったのならどうなったのだろう。映画を見終わった後、バスの車中、バスがトンネルの中を駆け抜け、窓から入るネオンの光が何処か無機質にみえた。
https://eiga.com/movie/93906/?fbclid=IwAR3goivRxBk0mEgy4WiHdwUjtMcnUIX-crrLUhBUA39rWU0PCrQO7BGmtXA
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2023年5月2日

武蔵野プレイスで開催されている、「Homemaking #2あたえられた土地と土」を見に行った。この展覧会はHomemakingシリーズとなっており、前回は別の場で開催されている。人と芸術の居場所 (=ホーム)を考えるという位置づけから、展覧会と読書会がセットになった企画となっており、前回はトタンと呼ばれる民家のスペースで開催された。今回は図書館での開催となっており、より開かれたスペースとなっていた。企画者である奥誠之はペインターでもあり、図書館司書としても働いている。そのためか、図書に対する造詣が深く、出展作家の関連本が掲載されたリストも会場で配布されていた。そのリストから図書館の本に当たる方法もあり、自然と読書の場が設計されているのも、前回とは異なるキュレーションだ。ここで、思い起こされるのは、オーストリアの思想家、イヴァン・イリイチが『脱学校化する社会』で唱えたラーニング・ウェブであり、本の中では机に置かれた本から人々の交流が始まり、相互の学習が始まるという内容であった。主に、教育学で触れられる文献となっている本書は、学校が存続し続ける昨今に於いても、未だに様々な影響を与えている。学校教育を視点に於いた作品も展示されており、宮川知宙の「友達が前にいたら走る」という立て看板は、宮川が実際に学童保育で働いた経験を元に制作されている。学童にとって、友達同士の放課後は唯一の休息であり、駆け寄りたくなる存在である。それが、車道を挟んだ向こう側に友達がいた場合に飛び出す危険もあるため、設置された立て看板であるという。それを宮川は展示空間に持ちかけ、別の眼差しで鑑賞する機会を設けている。ホーム、自由な場はこの国に存在するのだろうか、といった投げかけにも見える。他にも、ホームという点に於いて、これまで沖縄の問題を投げかけた西永怜央菜は、発達障害の経験とマインドの変化を元に、「ブルータブレット・メモ」を制作した。この作品は、アメリカのキャンディーカラーと自閉症啓発月間のテーマカラーをなぞらえ、神社のおみくじの様な紙が机に置かれ、鑑賞者が持って帰る参加型の作品となっている。私が手に取った紙に書かれた内容には、ある事件を想起させる事柄が書かれていた。実際に参加して確かめて欲しい。会場には、橋本優香子による映像作品も展示されており、コロナ禍によるロックダウン後の風景が記録されている。作者が実際に経験した疎外について扱っている様にも見えたが、その映像は多色な色彩がそれとは別の意味合いを持って映されている。その実際の造形とまた異なる文脈があるのは、チョン・ユギョンの作品からも見て取れる。ユギョンは、自身のルーツでもある、在日コリアンの作品をこれまで制作してきた。展示では、長崎県、大村にある入管所をテーマにした作品があり、陶磁器の型に強制送還された在日の人たちの声が記されている。記された声には、鉄格子や体は縛られているという言葉から、これまで見られなかった歴史に耳を傾けさせる。高田満帆の作品からも、そうした目を向けて来なかった歴史について考えさせられる。高田は石牟礼道子の詩に触れ、水俣に関心を抱き、影響を受け、エッセイ集を作成した。チラシの表紙となった作品も制作しており、そこに描かれた他者は何を想うのか気になった。これらの作品は開かれた図書館のギャラリーで展開された多声に触れる機会となっている。鑑賞料は無料でした。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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