批評ゼミ通信講座|選抜評論:まなざし/下田実來
まなざし
下田実來
土田麦僊 《罰》 1908
フェリックス・ヴァロットン 《ボール》 1899
2つの作品は、描かれている構図の視点は違う。子供の姿を描き、その先に見えている眼差しを描いているという点では類似しているのではないだろうか。
土田麦僊作《罰》は、絵画を見ているこちら側に向かって反省をしているかのように描かれている。子供の足元には花と通学鞄が投げ置かれ右の男児は頬に手を当て隣の子の様子を伺っている。この作品の構図は子供の目線に合わせて構成されている作品だ。そして「何かをして子供が怒られている。」という状況が伝わってくる。
「怒られている」ことが伝わってくるというポイントには、画面全体が淡い色彩で描かれていながらも、子供の着物の色彩で中和し右、上にある時間割で画面を保とうとしている関係があると考える。土田麦僊の作品に色を塗りつぶした単色を画面に使うことはあまりない。だからこそ、黒色に赤色の線で描かれていることが、この作品のミソであるのかもしれない。
子供を通じて見える世界は、大人が思う以上に明確に社会を見ているのかもしれない。
フェリックス・ヴァロットン作《ボール》は、ボールを追いかける女の子が描かれている。この絵画の視点は、上から見た情景で描かれ奥まで見えているという鳥の視点のような構図である。
また、誰かの運命の瞬間を覗いている不安と、この先どうなるのか。というハラハラ・ドキドキという奇妙な気持ちを持ってしまう作品だ。
この構図構成とは別に、画面に用いられる色彩が不安にさせる仕掛けがある。人がいるところには光が当たる描き方を、女の子がいる方には影が近づいてくる。影に視線の動きを持たせるために、光色と影色の対比が続いているような関係性があるのではないだろうか。この対比の繰り返しや、女の子がボールを追いかける動き。ということが、光を追いかけるという社会の姿を描いているのではないだろうか。
2点の作品において、純粋に子供を画面に描き、成長や遊んでいる姿を捉えるのではなく。子供がいる場所、そこにいる登場人物、もしくは、アイテム、画面の構図、絵画の色彩のコントロールによって画家は大人になると忘れゆく「子供の視線と、それらを取り巻く大人の動き社会の動き」ということを描こうとしているのかもしれない。
また、描かれた年代を見ると1899年と1908年であり近い年代に制作されたものである。
時代の変化の中で画家は自分自身が住んでいる場所の中で、これからを生きる人の姿を描こうとしていたはずだ。
【主要参考文献】
形forme No.322-2020 日文教育資料 [図画工作・美術] 令和2年10月22日 発行
〔画像〕《罰》土田麦僊 1908年 絹本着色 154.3cm×198.8cm 京都国立近代美術館蔵
https://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=150619&edaban=1
《ボール》 1899年、油彩/板に貼り付けた厚紙、48×61 cm、パリ、オルセー美術館蔵
© Rmn-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski