【映画】子役の演技——清水宏『風の中の子供』について(2012)

清水宏監督の『風の中の子供』(1937年)を観た。様式としての完成度は高かく、子供ののびのびとした演出と、整頓され単純化された映像の構築力は確かなものだった。日本家屋のように簡素で整頓された画面の構築と子供たちのイキイキとした姿とは、ここで描かれている物語の状況に沿わされたものではない。なぜなら、この物語は明るくも清々しくもないからだ。子供たちのリーダー的なポジションにいた三平とその家族は、私文書偽造の容疑による父親の逮捕で窮地に落とされる。物語の暗さと映像の美しさや穏やかさには、大きなギャップがある。

父親の逮捕によって三平と兄善太は友達から孤立するばかりでなく、経済上の問題から家族が引き離されてしまう。三平はそういうなかで、寂しさを訴えなんとかして家族がもう一度一緒に暮らせるためにひたすらグズる。高い木に登り、川をたらいに乗って流され、カッパに会うために池に入る。
子供は我慢などできない、どこまでも正直で素直なのだ。寂しいものは寂しい、嫌なものは嫌なのだ。大人の事情などに納得などできない。父親を失った三平の母親はそれに対してあまりにも無力である。
ところでこの映画で三平の母は、驚くほど無表情だ。母親は、感情を押し殺しどうしたら家族全員が生きていけるのか、選べるものを選ばなければいけない。どうであろうとそうしなければ子供を守ることができない。その意味で母の無表情さは、深刻な悲しみの表れである。悲しみを発露できる子供は無邪気さとは対照的である。

ここでわかるのは、悲しみの表現と深刻さの理解は別だということである。それは清水の子供の演出の仕方に関わっており、この映画の暗さと明るさの両義性になっている。子供の悲しみの理解とは、子供の悲しみの演技に反映されている。清水が子供に対して悲しみをどう演出しているのか。ここでの子供は、今の子役のような演技や演出の理解が明らかに不足している。今の子役なら迫真の演技をするであろうところを、三平は漫画みたいに「エ〜ン」と記号的に泣く。三平の演技は深刻さに対して理解が浅く感情がこもっていない。三平の演技は、泣いた次の瞬間には遊びに夢中になり忘れることができるようなものであり、悲しみに対してどこか散漫に見えるのだ。この状況の無理解は、家族がまた一緒に住むことができる、父親が会社をクビになっても新しい会社を作ることができるという素朴で楽天的な考えを持っていることでもある。だから、別の場所に住んでも、友達をすぐに作ることができるのだ。子供のこの理解の浅さとは、大人と同一視して子供を被害者に仕立てない重要な働きを持っているのだと気がついた。

子供は大人の世界で起こっていることを半分くらいしか理解できない。悲しむということがどういうことか、不可逆がどういうことか、理解せずに悲しみグズるのだ。同じ状況に迫られているにしても母の悲しみとは意味が違うのであり、環世界が違うのだ。同時に子供は世界に対して敏感に反応していることが、この映画では見事に表されている。

それがこの映画に明るさと暗さの二重性を含ませていたのだろう。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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