批評ゼミ通信講座|選抜評論:「わからなさ」と踊る-山内祥太《舞姫》を巡る試論-山内祥太《舞姫》を巡る試論-/fumina shimooka

「わからなさ」と踊る-山内祥太《舞姫》を巡る試論-山内祥太《舞姫》を巡る試論-
fumina shimooka

And each stroke of his tongue ripped off skin after successive skin, all the skins of a life in the world, and left behind a nascent patina of shining hairs.

(Angela Carter, “The Tiger’s Bride,” The Bloody Chamber and Other Stories, New York; Vintage Books, 1995)

 

 山内祥太(1992-)は人間と技術(テクノロジー)の関係を考察し、最新の技術と身体的感覚を組み込んだ、現実世界と仮想空間が交差する作品を生み出している。「人間とテクノロジーの矛盾点[1]がテーマになると語る彼の《舞姫》(2021年)は、人間・技術の二者間の関係性が「恋愛」として例えられ、ディスプレイに映る人間の皮膚をまとう3DCGで作られたゴリラが、現実世界の役者と同期して様々な動きを見せる、パフォーマンスを加味したインスタレーションである[2]。本論ではディスプレイの向こうのゴリラを主軸に据え、《舞姫》について迫りたい。

 まず、作品の全容について簡単に記述しておこう。《舞姫》では役者がモーションキャプチャーの付いたボディスーツ=「皮膚の服」をまとい、その動きがディスプレイに映る3DCGでモデリングされたゴリラへと同期されている。二人を繋ぐのは、へその緒のようなネオンピンクに光るチューブだ。山内が「自分ではない他者にやってもらうことで拡がりを取り入れたかった[3]と語るように、男女3人の役者が交代で人間の役を演じている。役者はディスプレイと向き合って踊り、その動きに合わせ、技術(テクノロジー)=ゴリラは動作を変えるが、二人の踊りの最後、役者が皮膚の服を脱ぎ捨て繋がりが切れると、ゴリラ独自のパートが現れる。その体は急激に老いて皺くちゃになるが、ゴリラが自身の体を舐めることで、身体は若返る。

 さて、ここでゴリラの造形に目を向けると、「人間の皮膚を持つゴリラ」という人に似て非ざる者の容貌(しかも動く)は大きなインパクトを持つが、その印象に拍車をかけるのは、大きさだろう。天井まで届く巨大なディスプレイに映し出されるゴリラの身体は、①類人猿②皮膚③豊かな表情という、人との近さを示すにも拘わらず、すべてが微妙に人間とはずれており、大きな違和感を生んでいる。くるくると変わる表情を見せる肌色のアノニマスな身体。よく知っているはずなのに、よくわからない存在=技術の比喩を、巨大なゴリラはうまく表しているといえる。

次に、ゴリラの動作に焦点を当てれば、役者によって異なるゴリラの細かな動きは、「恋愛」と例えられるように、個々人によって変容し得る人間と技術の有機的な関係性を体現しているといえる。しかし、同時に人間と技術の間の矛盾や齟齬もここでは露呈していないか。人間=役者の身体が交代しようと、変わることのない技術=ゴリラの身体。しかも向き合って踊ることで双方向的に見える二者間の関係も、実際は人間側の動きを伝えるという一方的なものにすぎない。ここには人間から技術への一方的な「愛」が垣間見える。そしてこの作品が秀逸なのは、そんな人間の「愛」への返歌を、技術(テクノロジー)側が示す様子が組み込まれている点だ。この返歌とはつまり踊りの最後、ゴリラが全身を舐める技術(テクノロジー)独自のパートだが、「老いる」「舐める」という肉体的な生々しい変化、行為の提示により、変化のないテクノロジーの世界が、さながら人の世界と繋がったような錯覚を覚える。

ここで獣と身体について考察を深めるため、これに関連する描写として、本論では独自にアンジェラ・カーター(Angela Carter, 1940-1992)、『虎の花嫁』(The Tiger’s Bride)(1979年)を引用したい。カーターはおとぎ話をフェミニズム的観点から捉え直した小説で知られ、『虎の花嫁』は『美女と野獣』を本歌取りし、最後に野獣でなく美女が獣に変身する。キーとなるのが《舞姫》に関連する「舐める」行為であり、本論冒頭で紹介しているが、獣の舌が女性の肌に触れるごとに、彼女は毛のある姿に変身する。ここでは行為が同化=他者への「変化」、そして二者間の「交流」を示す性的描写を想起させる。《舞姫》に立ち戻れば、一人で無心に身体を艶めかせるテクノロジーは、自慰に耽るようにも見えるが、ここでも「舐める」ことは「交流」「変化」を象徴し、唾液で濡れた肌は若返る。人間が一方的な愛を伝えるのと同じく、テクノロジーもまた生・老の変化を経験する私たちに「成りたがっている」。しかしその行為を作り出したのもまた山内=人間であるという矛盾。「人間とテクノロジーの矛盾点」が、いくつもの階層で絡み合い「恋愛」を形成する。

本論ではゴリラ=技術(テクノロジー)に着目して論を進めたが、以上のように、《舞姫》には作家の深い思索が垣間見える。「技術」それ自体を目的化することなく、表現のための手段として高度なそれに取り組む、思索の織り込まれた作品の完成度の高さは、作家の制作に対する真摯な態度を裏付けているといえる。

私たちは踊る。「わからなさ」と、「わかりあいたい」がために。

[1] https://www.youtube.com/watch?v=0l5HzoTfhMM (2022/9/21閲覧)       

[2] 展示場所によってディスプレイの大きさが変化し、パフォーマンスとは独立した映像作品として展示される場合も散見されるため、本論では「TERRADA ART AWARD 2021 ファイナリスト展」(2021年12月10日-23日、於寺田倉庫)における展示、パフォーマンスについて論じるものとする。

[3] 前掲出註1

【主要参考文献】

https://www.youtube.com/watch?v=0l5HzoTfhMM (2022/9/21閲覧)

https://www.terradaartaward.com/finalist (2022/9/21閲覧)

https://artgallery.ricoh.com/reports/shotayamauchi (2022/9/21閲覧)

Angela Carter, “The Tiger’s Bride,” The Bloody Chamber and Other Stories, New York; Vintage Books, 1995

※作品の様子はhttps://www.youtube.com/watch?v=0l5HzoTfhMMのものが公式の動画として分かりやすい。

 

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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