映画館と銭湯

映画館と銭湯は似ている、この二つはますます似てきている。
お風呂のない家は、全体の割合からすればいまやだいぶ少ない。お風呂に入りたいだけであれば、家で入ることができる。しかし、心や体をリフレッシュしたいがためにたまに(スーパー)銭湯や温泉に行きたくなる(もちろん全員がそうなるわけではないだろう)。このことと、家のテレビで映画をいつでも観ることはできるが、たまに映画館で映画を観たくなるという気持ちは似ている。

映画館では新作が観れるという特権があると思うかもしれないが、映画と同じ規模で展開するドラマの新作は映画館では見ることができない。映画館で新作を観ることの特権性は、以前よりも弱まってきている。それでも映画館に行って後悔することはあまりなく、映画館で映画を観ることはいいものだと思うことのほうが多い。

銭湯で得られる高揚感は、お風呂や建物の大きさ、施設の充実感、風呂の後のちょっとした買い物、みんなで入ることで、気分が明るくなることにある。そして、映画館も銭湯もネット環境からの切断が前提になっている。
この充実感や高揚感は、具体的に比較しても映画館と似ている。二つの大きな違いとしては銭湯は男女が別れるということ、デートなどで利用されるか否か、ファッションとの結びつきなどもあるかもしれない。一方で映画も上映中は話ができるわけではないから、銭湯の経験とそれほど違わないともいえるかもしれない。もちろんデートで銭湯に行く人は、映画に行く人のように多くはないだろうが。

この類似からある種のポジティブなアイデアが出てくるだろうか。こう言われると、ある種の虚しさを感じる人もいるかもしれない。家で入る風呂と、銭湯で入る風呂、そのくらいの違いであるならば、映画や映画館に未来はないだろうという人もいるかもしれない。もちろんその経験の差は、銭湯にせよ、映画館にしても結局絶対消えないことは信じていいと思う。ちなみに銭湯業界は、今非常に好調子で伸び率が高いようだ。
しかし、映画館がそういった身体レベルの充実感だけに頼るのであれば、生存することは難しいように思える。少なくとも4Dとかそういうアトラクション的な方向性には限界がある。アトラクションと銭湯的な充実感は別なのだと僕は思う。

では、映画はどのように生き残り得るのか。映画館は潰れて映画だけが残るのか(映画館が消滅後に映画をどう定義できるのか)。あるいは、映画というものがなくなりすべてがドラマやドキュメンタリーなどになるのか。映画は二時間ドラマと呼ばれるだけのものになるのか。
そんなことを考えると、逆に映画を上映しない映画館が登場してくることはありえないのかということも考えたくなる。例えば連続ドラマを連続ドラマ的に上映する映画館があってもおかしくない。あるいは、映画でもドラマでもないような形式が、映画となる可能性はあるだろうか。このようなことを考えてみることはまだ可能かもしれない。意味があるかないかは別として。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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