SF映画におけるカースト制、そして日本の未来。

ブログの指南書を読んでいると、ブログは基本的に毎日書きなさいと書いてある。毎日書けば確かに文章の練習になるが、そんなペースで書けるのか。そのペースで記事を書くことの弊害が自分にはないのかを考えてしまう。また、それをやるとしたら記事の内容のあり方を見直さなければいけない。新聞記者がそれをこなせるのは然るべきフォーマットがある体。まぁ、そこらへんは、無理せず試行錯誤して時間をかけてどうするか考えていきたい。

本題に入ろう。
戦争や犯罪のないユートピア社会・デストピア社会に孕まれる欺瞞や危険性をテーマにしたSF映画がある。そのジャンルは、ディストピア映画と呼ばれるが、『ハンガーゲーム』、『ダイバージェント』、『ギヴァー 記憶を注ぐ者』、『エリジウム』などがその類に当たる。
この種のSF映画では、職業を選択する自由がなく、生まれながらにあるいは適性審査によって職業が振り分けられるシステムが敷かれていることが一つの典型的な設定としてある。これらの未来社会は、民主的であれ階級的であれカースト制に近い分類システムになっている。社会全体の安定を維持することが目的となり、反乱や混乱が起こらないために自由やエゴを促す思想や歴史は徹底して排除されている。ここでは、個人の自由意志だけでなく、家族内の決定権も制限されている特徴がある。一見ネガティブに見えるカースト制だが、戦争や犯罪を防ぎ、貧困や格差をなくし(あるいは見えないものとし)、人口増減の制御や、限られた資源の中で社会インフラの効率化を徹底し、国民の未来に対する不安をなくすために、国民の自由や意思を制限する最良の手段になっている。過度に管理されたクリーンな社会だ。

これはフィクションの中では極端な形で現れるが、現代においてリアルに「カースト制」を有効な社会システムと考えている者は、少なからずいるはずである。落合陽一は、カースト制は日本に性質に合っていると言っている。なぜなら「士農工商」という伝統があったではないかと書いている。社会の雇用を安定させ、その効率化を図るためにそのような選択を取るということはありうる選択かもしれないと納得できる部分はある。
また、例えば私たちはかつてよりも能動的に消費の選択肢を開拓する、取集する力が衰え、より受動的な方へ流れていっている様にも感じられる。これは、ビックデータやネットのアーキテクチャーによるところが大きい。
そして、私たちは、雇用の不安を抑制し仕事に没入できる環境をつくるために、個人の自由を制限しようといったら、今日的な条件で最適化された新しい「カースト制度」に賛同する人も少なくないかもしれない。

ところで、落合は「士農工商」の説明をするときに、えた・ひにんについては触れていない。これに触れたら「士農工商」を肯定するのが難しくなるからだろう。カースト制に対するポジティブな見方が可能であるのは理解できるが、一方でネガティブな部分が、無視できない割合であるだろう。
そして、今の日本の社会における生活保護やホームレスへの対応や反応を見ていると、「士農工商」よりも先に(今日的な意味での)えた・ひにんという階級を確立しようとしているのではないかと思わなくもない。
こういうと、それは身分制ではなく自己責任であって違うという反論が出てくるかもしれない。しかし、むしろこの自己責任論こそが、階級的なものを肯定する心理的作用を持っているのではないだろうか。低所得者に対して、自分たちはまだマシ、自分たちはああはなりなくない、彼らは私たちと同じ人間とは呼べない堕落した人間であると、恐怖感と安心感を盾にする反応こそがそういうものを肯定しないか。貧困層の家族や人々を厳しく批判する者たちの自意識には、そのようなところがあるとは言えないだろうか。

 

蜘蛛と箒

1979年生まれ。美術家、美術批評家

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