アート・美術が創造するインスピレーションとは何か。
アートが業界内部で閉鎖的なものになるわけでも、客寄せのための見世物でもなく、権威を獲得するためだけの免罪符になるわけでもなく、広い意味でのクリエイティブな刺激やインスピレーションを与えるものすることができないかということをいつも考えている。僕が美術ではなく、アートという言葉を積極的に使いたいと思う時は、アートの外部への呼びかけを積極的に行いたい時においてである。
一方で、ポジティブな意味で専門的・閉鎖的であることも同じように必要だと思っている。成果をあげるという事が広域か狭域かというのは、本質的には偽の対立だからである。より志向性の高い場所で、重要な成果が起こるというのは当然のことである。志向性を強めたつまり専門性を前提にした意見や情報のときは、美術という言葉を使用している傾向があるかもしれない。そして、そういう専門的な思考の営為が、アートよりも外部の人間に呼びかけないとは限らない。そちらの方が外部の人間たちに伝わりやすい、しげくを与えるということはあり得ると考えているからだ。ゆえに本質的にはアートと美術の違いなどない。
社会一般など信じない。作品の成立は共感を超えた場所で価値を持つという信念に支えられて、美術作品は作られる。アート・美術は社会一般にダイレクトにインスピレーションを与えるものではなく、一部のアンテナを張っている人間にまず刺激を与えるようなものである。だからこそ美術はコストパフォーマンスなどの経済性や合理性を退けることができるのだ。アンテナに反応する人のは、子供かもしれないし、科学者かもしれないし、主婦かもしれないし、医者かもしれないし、八百屋かもしれない。全方向に刺激を与えるのではなく、また属性に限定されるのでもない一部の人間に届くようなものである。アート・美術の作品が、アート・美術に関わる人に届くというのは間違いである。むしろ人生や世界にどのような可能性や問いを持っているかを共有できたときに、作品が構築する可能性=構想力は(閉じられていた本が開らかれ読み始められるように)開かれる。
このことはアート・美術特有なのだと言いたいわけではない。むしろ、これは理想としてあらゆる領域に当てはまる事だ。アート・美術とは、この理想的な創造(の場)を要求することが、他の領域よりも積極的に肯定されているだけなのである。だからこそ、その可能性は、さまざまな場所の一部の人に届く可能性を持っているのだ。これはアート・美術は自由で楽観的であるということを意味しない。むしろ、その自由を獲得するために、それとは別のさまざまな制約や不自由さを抱えている。しかし、だからこそ作品の成立はリアリティを持つのである。