エドワード・ホッパーとアルコール

エドワード・ホッパー(1882-1967)は、都会の中で生きる人間の疎外や孤独を描いていると言われる。ホッパーの絵画には、明確な出来事や事件は描かれない。これから何かが引き起こされようとしてる、あるいは決定的な何かが起こってしまった後の人間を描いているようである。彼の作品の多くは、パブリックとプライベートの境界や、窃視的な眼差しを強く意識させる。
ホッパーの作品には、アメリカの都市のリアリズムを感じさせ、1950年代に流行したフィルム・ノワールと呼ばれるサスペンス映画の雰囲気と多くの共通点を持っている。そのような状況を作るためにホッパーは夜の情景をうまく利用した。ホッパーといえば、深夜に営業しているダイナーを描いた《Nighthawks》(1942)などを思い出す人も多いだろう。

ところで、ホッパーは都会に生きる人間の疎外や孤独、夜の時間を埋めるものとして、映画や小説では必ずといっていいほど登場する「酒」を描いていない。ホッパーの絵画の中で人が手にしている飲み物の多くは、コーヒーが入っているであろうマグカップなどである。
ホッパーは、キャラクター性や心理的なものを表すためにタバコを小道具としてよく利用するが、アルコールは利用しなかった。調べてみた限り、わずかに描かれているように見える作品もあるが、傷や孤独を癒すためのものとしてアルコールを描いていない。
《Nighthawks》や《Automat》(Automat/オートマットとは、自動販売機式の食堂のこと)などで、彼らが飲んでいるものがアルコールではないことは、意外に思えるほどだ。
ホッパー自身もアルコールをほとんど摂取しなかったようである。それでも、絵の場面を作るためにアルコールを利用することは何ら不自然ではないはずだ。

《Nighthawks》(1942)

と、こう書いておきながら、《Nighthawks》はともかく20年代に描かれた《Automat》で飲酒が描かれることは実はありえない。なぜなら、1920年から1933年の間アメリカは、禁酒法でアルコールが禁じられていたからである。ホッパーが好んで描いている大きく透明な窓とその中に描かれる人々との関係は、プライベートや秘密が裸にされるような無防備さと、何が起こっているのかがはっきりとわからない状況が描かれており、それが拮抗することで緊張感を生んでいる。このことと酒が描かれないことは何らかの関係があるのではないかと思って、少しネットで調べて見た。


 《Automat》(1927)

すると、ホッパーと禁酒法の関係について書かれている記事を見つけた。ホッパーは、禁酒法におそらく賛成していなかっただろうと書かれていた。なぜならホッパーは、政治的なものに触れるタイプの人間ではなかったが、政府によって施行させる制約や、教会などによって啓蒙される正義や節制を嫌い、距離を保とうとしていたからだ。実際ホッパーの絵を見れば、彼が人間の正しさよりも、人間の弱さや愚かさ、影の部分に関心があったのは明らかである。《The bootleggers(密売者)》は、社会の規制に異議申し立てをする典型だという意見もある。ここでの密売は、夜であり、近くに家がない個人宅であることから、酒であると想像することも難しくはない。

 


《The bootleggers》(1925)

そのような考えから見てみると、ホッパーの《Room in the New York》の重苦しい空気と人物たちの行為の関係も妙に思えてくる。男女は新聞を読んだり、ピアノを弾いているが、それ自体に集中してないようにも感じられる。彼らのよそよそしさや何か抑圧されているように見えることは、二人の関係性から生まれていると限定されるものではなく、社会からの眼差し、第三者の審級の存在によって引き起こされているといえる。彼らは一種の演技をしているといえる。だが、演劇の俳優とは真逆の意味で彼らは演じているのだ。なぜなら俳優は何かを示すために演じるが、装うとは何かを隠すために演じるものだからだ。

《Room in the New York》(1940)

参照ページ:The Bootleggers (1925) | Hopper in Gloucester

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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