【小説】夏目漱石『泥棒』について(2012)

 

夏目漱石の永日小品のなかには『泥棒』という作品がある。非常に短く小さな物語だがとても面白いのだ。これは夏目漱石の家に泥棒が入った話である。しかし、そこで描かれる泥棒とは、人間だけでなく鼠が含まれる。漱石の家は、帯泥棒に入られた次の日に鼠に鰹節を齧られてしまう。二日連続で家の部外者からの損害を被るのだ。
この作品内では、二つの出来事に対する夏目の家の者たちの反応について淡々と語られるだけで、物語としての結びつきが説明的に語られることはない。小説は解説文ではないのだから説明ではなく示されることによって成立している。そのため、ここで何が描かれているのか少し詰めて考えてみたい。

一日目は帯泥棒に入られる。
漱石は、泥棒に気がついた下女の泣いている声で目を覚ますのだが、泥棒はすでにおらず、荒らされた箪笥だけをみる。それで家は大騒ぎになるのだが、この時点でいったい何が盗まれたのかはわからない。そして、明くる日の巡査の調べで、帯だけ10本盗まれていることがわかった。

次の日の夜。ナーバスになった漱石の妻が不審な音に目を覚まし、漱石も起こされる。その時下女は鼾をかいて眠っている。泥棒のものかと思った不審な音は、鼠が何かを齧っているものだと気がつき、2人は安心して眠りにつく。そして、次の日齧られた鰹節を見て、鼠を追い払い鰹節をしまわなかったことを彼は後悔する。

前日に泥棒に入られなければ、漱石は鼠を見過ごしはしなかっただろう。なぜなら、漱石と妻は泥棒に入られたという大きな出来事に対して、鼠に食べ物を齧られることの損害と危険を小さなものとして理解し安心したからである。なんだ鼠か、と片づけてしまったのである。

犯行に気がついているにもかかわらず、何も行動に出なかったという自体は、帯が盗まれる時にもあったことが書かれている。
1日目の帯泥棒の存在をずっと気がついていた者がいる。それは漱石の長女だ。彼女がなぜ泥棒の存在を周りに伝えようとしなかったか、犯罪を食い止めなかったのかについて書かれていない。想像してみると、十歳である彼女にとってそれはあまりにも勇気を必要とする行動であり、自らを危険に晒す行動だったことは想定できる。つまり、彼女がなんらかの行動に出られなかったことは当然のことであって、誰も彼女を責めることはできないだろう。だから、ここではその事実以上のことが書かれていないのだと考えるのが正しいかもしれない。

実際、人は、泥棒に何かを盗まれるよりも、泥棒に傷害あるいは殺人を引き起こされることの方を恐れる。もちろん後者の方が損害が甚大だからである。だからこそ、物を取られようがその場では抵抗せず素直に従うか、もしくは息をひそめる判断をする。つまり、損害に対する認識が、人の行動を制限するないし、影響を与える。

ここでは目の前で行われている犯罪をやり過ごしたという意味で、鼠を、ああ、鼠かと安心してしまって所在を突き止めず犯行も食い止めなかったことと、長女が泥棒に気づいているにもかかわらず、泥棒に気づかれてしまうことが恐ろしくて何もできないことが対照的なものとして結びつけられている。
ここで二つの盗難を捕まえられたかもしれないが取り逃がした原因を整理してみよう。

・泥棒は物を盗むが、人も殺すかもしれない。
・鼠は食べ物を齧るが、人を殺すことはない。
・泥棒は高価な物を盗むかもしれないが、鼠は高価な物を齧ることはない。

これらの想像力が前提となっているため、帯泥棒の場合泥棒に入られたその出来事自体の衝撃が大きく、実際何が盗まれたのかわからなくても、誰かに家に入られ箪笥が荒らされただけで、住人は大きく戸惑う。

本作では、泥棒をとり逃がすことについてもう1つのケースが描かれている。それは、刑事である。

“泥棒は大抵下谷、浅草辺から電車でやって来て、明くる日の朝また電車で帰るのだそうだ。大抵捉まらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せる電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。”

刑事は、泥棒の犯罪経路によって捕まらないことを言っているようで、実は損になるからあえて捕まえようとはしないことを言っている。泥棒は捕まらないのではなく、警察が捕まえようとしないのである。刑事も人間だからということなのか、警察の使命感や正義感よりも極めて打算的な損得勘定で動いているというのだ。確かしに世の中の警察を見ていても、そう思うことは多々ある。被害者と加害者の関係ではなく、第三者(刑事)の損益を絡ませるのも面白い。このような問題を圧縮しつつ、さりげなく書き上げる漱石の手さばきは見事だ。

ここで提出されている犯罪(者)に対する三つの態度は、単に犯罪に対する一つの見識として考えるものではないように思える。出来事に含まれている好機や真実を先入観や損得勘定によって取り損ねてしまうことは、犯罪に限らず人の認識として広く考えることができるだろう。これはそういったものに対する寓意にもなっていると思う。

蜘蛛と箒

1979年生まれ。美術家、美術批評家

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