「写真という逃走経路(7)」 (2009)

第3回目は、オラファー・エリアソン(Olafur Eliasson)の《Green River》(1998-2001)について書いてみようと思います。このプロジェクトは、川に水質汚染の恐れのない無害な緑色の染料を川に投入し、川を緑色に変えるものです。これは、ブレーメン/ドイツ(1998)、モス/ノルウェイ(1998)、ロサンジェルス/アメリカ(1999)、ストックホルム(2000)、東京/日本(2001)で行われました。この作品は写真作品であると限定できるものではありません。しかし、写真という媒体に落とし込むということに対してエリアソンはきわめて自覚的です。このことは、彼が継承しているといえるアース・ワークから継続されている問題です。
 ギャラリーの外で、しかも都市部から離れ、周りに何もない巨大な空間がある場所などで作品を設置・制作した多くのアースワークは、作品やプロセスを記録するためにカメラをよく用いました。彼らは、そこに行かなければ見ることのできない、もしくはその制作現場を目撃した人しか作品を見ることができない性質のものを、作品として提示するために、作品を記録した写真をギャラリーで展示しました。これは一つの不可避的な手段であるとも言えるし、写真が作品と鑑賞者の媒介となることで新しい可能性を持っていたとも言えます。

この記録写真のあり方とアースワークの作品の関係に対して意見が分かれます。作品として提出される記録写真は作品の本質とは無関係のポルノグラフィーみたいなものだということも可能です。一方では、写真に積極的な視点を持つことも可能です。エリアソンの《Green River》も、現場と写真の間にある落差をどのように捉えるのかという問題を引きずっているはずです。

彼は川を染料で緑に染め上げた時、まるで絵画のように感じたといっています。このことは、高い位置に設定し撮影された写真の方が実際に見たときよりもわかりやすく伝わるのではないでしょうか。この写真で固定されている染料の流れ方や色彩に対して、モーリス・ルイスの作品を思い出すことはけして難しくないでしょう。
けれども、一方でこの作品の核心は、ランドスケープをキャンバスに見立てた巨大な絵画=写真作品ということだけには収まりません。なぜならこの作品の制作は、エリアソンが一つのゲリラ的なイヴェントとして行われた作品であり、この作品は川のなかに流し込むという性格上、流れていってしまうものなので、流したあとは作者自身が設置場所をコントロールできるものではない。そして、この緑に染まった現象の目撃者も制限することができない。つまり設置というような場所性、もしくはそれに関係する作品のコンテクストの設定を作者自身が決定することは厳密な意味ではできません。
この作品はパフォーマンスとして、都市内部で行われ、犯罪ギリギリの駆け引きのなかで行われています。この緑の液体を目撃した人は、これが絵画的だとか、アースワークの流れを汲む作品などとは思わなかったはずです。この状況は明らかに異変であり(プランクトンや汚染物質など)、もしくは人為的なものとわかれば一つのテロ行為だと理解するように思えます。
その緊張感がエリアソンにとって重要だったはずです。このスペクタクルの暴力性は、彼の他の作品ではないような多義性を持っているように思えます。他の作品はエリアソンが人為的に作ったという安定したコンテクストを誰が見てもわかるように設定されている。つまり、アースワーク的な問題からは外れるようなアトラクション的なものとなっています。この作品は、彼の他の作品とは明らかに線引きされる作品です。他の作品は巨大なものやオプティカルな効果を引き起こしたとしても、目撃者/鑑賞者の立ち位置を揺らがせるものはなく、きわめて安定したスペクタクルになっています。
《Green River》は、目撃者の安心感を奪い、複数の可能性を想起させるように出来上がっている。
そのことを示すためにも、この作品を世界各地で行ったはずです。そこでは強制的に目撃者を作るという戦略的なスペクタクル性がもたれており、見る者が強制的に複数のコンテクストを構築させられるポテンシャルを持っている。
ですから、彼はこの作品で警察との危険な駆け引きがありました。エリアソンは、初めてこのプロジェクトを行う時、車の中で染料を持っている自分が、まるで犯罪者やテロリストであるかのような感覚があったと言っています。このプロジェクトが、2001年で終えられていることも9.11の問題が関係しているかもしれません。
一方で、《Green River》の写真は、エリアソンが考えたような美術史的なコンテクストに接続し、正しく見せる機能を持っている。と同時に社会的なセキュリティや自然環境に対する批評性は間接的なものとして後退してしまう。生産行為=パフォーマンスと生産物=写真のズレを考えさせます。
撮影行為と成果物としての写真には、別のコンテクスト(社会的なコンテクストに限らず)が孕んでいることがあります。撮影行為が見えないものとしてあるのではなく、プロセスが前景化する場合、この落差は大きなものとして見えてきます。

 

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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