ヒューストン美術館でのアフリカ美術と先コロンブス期美術

ニューヨークに来てから、新しい環境での生活を整えることに時間がかかり、疲れも溜まったせいで体を大きく壊してしまった。そのため、ブログの執筆作業に大きな遅れが出てしまった。そんなにいろいろ予定通りに行くはずはないと思っていたが、その間にスローペースとはいえ、それなりの量の美術作品を見ていると、それらについて文章にする気力もだんだん失われていく。このままではまずいと考え、感想文程度でも文章にしておきたい。

ヒューストン美術館は、古代から現代までの60,000点近くのコレクションを持っている巨大な美術館である。大英博物館、メトロポリタン美術館、ルーブルなどと比べれば当然見劣りするが、まとまった数の美術作品を見ることができた。特に、アフリカ美術や先コロンブス期(アメリカ大陸コロンブス到来以前の時代)の美術作品などを多く見られたのは、一つの大きな収穫であった。
逆に、西洋美術のコレクションも多く充実はしているが、決定的な一枚と呼べる一流のレベルの作品はほとんどなかった。
アメリカに来ていくつかの美術館をまわって感じることは、コレクションの展示がヨーロッパの美術を中心にしたものではなく、もっと多民族による多元的な歴史が構築されていることである。大英博物館やルーブル美術館ももちろんそのようなコレクションを持っているが、やはり西洋美術が中心にあり、全てが統合されているという印象を強く持つ。それとは印象が大きく異なるというのが今のところの僕の感想である。ここは、アメリカの国家的なアイディンティティとしてみることができるだろう。

そして、今回アフリカ美術を大量に見て、果たしてこれらの作品以上にピカソが何か新しい創造をしたといえるだろうかと疑いたくなるほど、興味深く、かつとても美しいものであった。(ここでのアフリカ美術に、もちろんエジプト美術は含まれない。アフリカ美術を一元的には語ることは難しいだろう。ここでは、セクション的に分類されたアフリカ美術という言葉を便宜上使うことにする)道具が持つ機能性を抽象化し、人体の表現と組み合わされ、それが動物や昆虫との形態的な類似性共結びつけられる。実際それが道具として成立しているものもあれば、それ自体が彫像として成立しているものもある。これが教科書で習うようなプリミティブな美術として片付けられない、知的な想像性を感じた。アフリカの木彫作品はそれほど古いものは残っていない、少なくとも多くはない。19世紀から20世紀のものがほとんどのように思える。

この美術館で見ることができた17世紀の木彫は、写実的な意識が強いものであった。アフリカのブロンズでも12世紀ぐらいから高い写実性を持った彫刻は存在している。これは地域による偏差なのかもしれないが、アフリカ美術の抽象性は始めから無時間的で変化のないものなのか、それとも展開的に作り出されたものなのか。アフリカ彫刻において、形態の抽象化、比喩化に様式的な発展史のようなものがあるのか、あるとすればそれはどういうものなのか調べてみたいと思った。



コロンブス到来以前のメキシコアメリカの美術も一括りにすることはできないが、ここでの彫像は、人間の表情にリアリズムを感じるものが多かった。人間を大きく見せる、象徴的に見せるというよりは、具体的な人間の感情が現れているように思えたのだ。
オルメック時代(紀元前1500年から紀元前400年くらいに反映した文明)の幼児の彫像、お面のように平たい顔を持ち、横に引き伸ばされたような造形をしているベラクルス古典文化(約1世紀から10世紀の時代にあったメキシコ、ベラクルス州の文化、最盛期は600年から900年)の彫像が印象的であった。
プロポーションなどは単純化されているにせよ、これらの彫像の表情から伝わる印象は、コミュニケーションとしての具体的な意味を含んでいるだろう。
そして、エジプト美術などから繋がっていくある種の美の体系みたいなものや、アフリカ美術の抽象化みたいなものとも繋がらないような美や人間像の意識が感じられ興味深かった。

 

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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