「写真という逃走経路(9)」(2010)
「質の高い、面白いアートでありながら、1917年以来のアートの集中教育を受けていなくとも理解できるもの。そんなアートを制作する方法がどこかにあるはずだ。」― エイドリアン・パイパー
ケン・ラム(Ken Lum)の写真とテキストを使った看板作品の多くは、アイデンティティ問題を扱っています。それは今日的な肖像画ともいえますが、写っている人間は匿名であり、そこに描き出されるものはフィクションとなっています。彼の看板に特徴的なのは、ありふれたシュチュエーションのなかで、誰もが感じる(た)ことがあるような社会的共同体の中で、あるいは労働の中で生まれる疎外の問題です。
ここで描かれる意味内容とは難しいものではなく、誰が見ても了解できるような類いのものです。このことは意味の多義性を排除し率直に内容を伝える広告の形式を踏襲しているからです。とはいえ、もちろんラムの作品は企業や商品の宣伝のために作られているわけではありません。そのため内容は何かしらの広告というよりも、日常で頻繁に起こりうる疎外や抑圧にたいする問いかけを提示しているといえるでしょう。
どこにでもあるようなシチュエーションを改めてフレームアップすることによって、このようなことはあなたの周りでも起こりうる、もしくはいままさに起こっていることですね、と見る者の意識に働きかけます。それによって引き起こされる軽い笑いと反省性を作り出すコント的役割を担っています。
ラムは、日常の戯画化によってそこに孕まれるポリティクスを主題として扱いながらも、それが単にPCに陥らないのは、これが企業や商品の宣伝、公共広告機構的な訓育的メッセージをすり抜け、ナンセンスとユーモアのある雰囲気が含まれているからでしょう。
また看板として明示される意味内容は、人々のわずかな仕草や身振りを人々に注視させ、写真には写し出されていない前後の時間を想起させます。たとえば《A tale of two children》で、ののしられている少年と、ほめられている少女の身振りや風体のコントラストは、ベタな演出であるがゆえに広がりのある考察ができます。
写真に添えられるテキストは、簡潔な内容で繰り返しやリズムを持つ言い回しをする事によって、単に写真の解説文になっておらず、写真に表象されていないはずの時間の幅を観者に印象づけます。
写真とテキストの関係は、多くのコンセプチュアル・アーティストによって試みてきた形式ですが、彼は写真とテキストによるイメージをリテラルに結びつけ、疑いのない形で二つを統合させています。ケン・ラムの看板作品を、美術史と社会学の二つのコンテクストに対するダブルスタンダードの手法/戦略として批判することもできるかもしれません。けれども、この看板が間口の広いインフォメーションとして機能しながら、写真とテキストの統合という形式自体を考察することもできます。また、彼の仕事は、様々なメディア(インスタレーション、建築、彫刻など)に展開させてもおり、作品の理解しやすさもけして一様ではありません。ですからラムの基盤となる看板の作品を考え、検証してみる事の必要性はあるように感じています。