例外の感覚:出来事を通して考えるということ

出来事を起こすこと

まず出来事を起こすことが必要だ。書けるときに書いておくこと。完璧を求めすぎず、手を動かすこと、声を出すこと、どこかに赴くこと。
それらはすべて、出来事を起こすことにほかならない。SNSでの一投稿であっても、何かしらの出来事を生み出していることである。


バディウが説明する出来事

哲学者アラン・バディウは、「出来事」とは、所与の世界の内部に「例外」を生じさせることだと語っている。
例外的であるとは、「事物の状態の通常の、自然的な生産ではないもの」を考えることにほかならない。
例外でなければ出来事ではない。
そして、出来事=例外とは、世界の外部から現れるのではなく、内部にある素材や事物から引き起こされる、計算不可能な何かである。
それが別の世界でも理解されうる普遍的な真理として働くのは、それが内部にとっての例外だからである。


自らの行為に宿る「例外」の可能性

バディウは、出来事を奇跡のような稀なものとして語っているようにも読める。しかしここでは、自分が生み出したあらゆる出来事――それを実行しなければ生まれなかったという意味で「自然な生産ではないもの」――にも、例外的な何かが到来している可能性があると考えてみてもよいのかもしれない。
ここでは、彼の哲学を正確に解釈することではなく、「出来事」に対する自らの理解の道筋をつくるためのきっかけとして利用してみる。


なぜ、出来事を起こすことが必要なのか

出来事を起こすことが必要だと書いたのは、それは成果を出すためではなく、例外的な何かが何であるかを問う練習になるからだ。

出来事をつくることは出来事の理解の地平を開くことである。私はそれを見たいがゆえにそれをするという、受動性を生産するための行為でもある。

そして例外はまず、言葉にしにくい感覚として現れる。それは出来事自体のなかにあるのか、それとも、それを経験する主体の内部にあるのか。
いずれにせよ、「いつもと違う何か」は、どんなに些細な行為や変化のなかにも潜んでいるものであり、それが例外の入り口となりうる。


出来事から学ぶことと自由

出来事=例外の可能性に気づくとは、自分が初めて見た・経験したという感覚に立ち止まることだ。バディウは「出来事は到来するもの」だと言っている。どんなに計算して行ったとしても、出来事は到来するものだと確かに思う。私がここで行っている出来事とは、まだ意味を持たない、わずかな差異のようなものである。

出来事から学ぶことは、成功や失敗、有用性といった枠組みで捉えようとした途端に、モデル化の枠に押し込められてしまう。
例外とは差異であり変化をつくり出す。 言語として不安定な状態にある。そのため、変化としての出来事を分析する際には、それがもたらす身体的なフィードバックを手がかりにする必要がある。

この「言葉にしにくい感覚」の手触りをしつこく考えること。

あらゆる問いの答えがすぐ得られるようになった時代にあっても、私たちは「それは何だったのか?」という問いを放置して生きている。
あるいは気づかずに通り過ぎている。
だが、そうした問いに向き合うことにこそ、自由がある。
その受動性のなかに、自由が存在している。私はこの受動性にいつも惹かれている。


AIは例外を認識できるのか?

出来事に対するフィードバックが言葉にしやすいものであれば、例外とは言えない。それは必ず理解が遅れてやってくる。
この経験、あるいは発見を、AIが指摘できるかと言えば、そうではない。モデル化されているのであれば、それは例外とは言い得ない。

例外の気づきとは、まだ社会的な価値や意味を持たないマイナーな事実(マイノリティ・リポート)である。

たとえば、たまたま自分がお腹が空いていたからこそ生まれる例外もある。
AIは、こうした偶発的で非効率な微細な出来事とその感覚を拾い上げて語ろうとはしない。
だが、そこにこそ、新しい理解の端緒があるかもしれない。
AIは、あるいはテキストは、情報や分析の取捨選択を行う。その選択やプライオリティを疑うこと、あるいは括弧に入れることで創造性は生まれてきたことは歴史上でも自明である。


出来事とAI──可能性の理解のちがい

出来事から可能性を理解することと、AIから導かれる可能性を理解することは、まったく異なる種類の調査である。
どちらも必要だが、その違いを意識的に捉え直す必要がある。

もし私たちが出来事から学ばず、その分析をすべてAIに委ねてしまったら、
新しい例外は、もはやこの世界に現れなくなるだろう。


参考文献
アラン・バディウ『アラン・バディウ、自らの哲学を語る』近藤和敬訳、水声社、2023年。


石川卓磨

いしかわ・たくま 1979年千葉県生まれ。美術家、美術批評。芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織「蜘蛛と箒」主宰。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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