リチャード・セラの鉛のロールについて(2016)
リチャード・セラの初期の仕事として位置づけられている作品には《Thirty-five Feet of Lead Rolled Up》(1968)や、《Double Roll》(1968)など、鉛のロールが多く作られている。鉛のロールはそれぞれ鉛の板の厚さやサイズ、一方向から巻いたものと両端から巻いたもの、中心の空洞部分を広さ、層に隙間ができないようにきつく巻いたものと隙間ができるようにゆるく巻いたものなど、個別的な試みのヴィリエーションを見ることができる。
私たちに鉛の板を巻くという経験がないとしても、布や紙、シートや絨毯などを巻いた経験から、セラの行為がどのようなものであるかをある程度想像することができるはずだ。例えば、サイズの大きい絨毯を巻くときに気がつくことは、軸をずらさずに真っ直ぐ巻いていくことの難しさである。真っ直ぐに巻き込んでいくことができないと、層の重なりがズレていき、側面が突き出たり、凹んだりしてしまう。絨毯を真っ直ぐ巻き込んでいくためには、巻くときにかける左右の力のバランスとタイミンを調整していかなければならない。左右の力のかかり方がずれると、巻いていく方向の軸が右か左に逸れてずれてしまう。そのため人は、絨毯をロールにするときは、絨毯と身体のシンメトリーを意識することになる。このことはセラの鉛のロールに置き換え可能である。《Thirty-five Feet of Lead Rolled Up》は、文字通り35フィート(約10メートル)の幅を、身体と鉛の板の中心の関係を調整しながら巻いた持続的な時間の結果なのである。この鉛と身体に現れるシンメトリーの関係は、垂直/水平の違いはあるにせよ、バーネット・ニューマンがキャンバスの中心に引いた垂直線(ジップ)と関係を持っている。《Onement Ⅰ》は、画面にシンメトリーを与えるジップが描かれた代表的な作品である。ニューマンにとってジップとは、画面を半分に分割するものではなく、絵画にシンメトリーを与え、身体のシンメトリーと呼応し合うような運動を作り出すものだった。ジップは、観者自身がどこから絵画を見るのかという意識の働きかけ(リフレクション)を生み出す。ニューマンは、これを「場所の感覚」と呼んだ。註1
鉛のロールは円筒の形態だが、もともとは板状であり長方形である。それを巻き込む過程は、先述したように、板と身体のシンメトリーを合わせていくことであり、ニューマンのジップと重なり合う。しかし、《Onement Ⅰ》におけるジップが、観者に「場所の感覚」を与えるのに対して、セラの鉛のロールは、シンメトリーの現前性を観者に与えることはない。鉛のロールは、作者と観者の感覚の差異(遅れ)を現前している。「場所の感覚」を経験するのは、作家本人のみであり、観者は痕跡としての鉛のロールを通して、間接的にシンメトリーや「場所の感覚」を想像しながら見出すのである。鉛のロールには、イヴ=アラン・ボアが指摘している(ジップによって作られる)側向性註2——視覚における横への拡がり——のような外への拡がりはなく、ロールは形成された力と時間の働きを内在させて、物の内側へと意識を向けさせるエネルゲイアような性質を持っている。
また、鉛のロールにおける中心軸は、ニューマンのように描かれることで生み出されるものではなく、重力のように示される物理的な法則である。そして、鉛のロールを真っ直ぐ巻くためには、それに従うほかない。ここで改めて考えてみる必要があるのは、人間の身体は本当にシンメトリーなのだろうかということである。もちろん、そうではない。それは、人間が無意識的に絨毯を巻くと失敗をすることと無関係ではないだろう。エルンスト・マッハは、この身体のアシンメトリーについてこう指摘している。
私は或る老将校から、真暗闇のなかを、または吹雪をついて進んでいる軍隊は、外部によりどころがない場合には、真直ぐ行進しているつもりでも、ほぼ大きな円を描いて動いており、その結果、出発点に帰って来かねないという話を聞いたことがある。トルストイの「主人と召使い」のなかにも同じような話が出て来る。この現象は運動がほんの僅か非対称的であるということによってのみうまく理解できる。それは、円筒に近い形の円錐を転がすと、大きな円を描いて廻るのと似ている。註3
マッハがあげている例で示唆的なのは、道を視認ができない状況が、身体の歪みを露呈させるということだ。絨毯を巻く際に、左右の歪みが出てしまうこともまた、目を開いているにもかかわらず、沿うべき道=中心軸を視認することが難しいである。
ニューマンが観念的にだけシンメトリーを捉えていたわけではないのは明らかである。けれども、理念と身体が相応するものとして考えたはずである。一方セラは、一貫して物質や身体が持っている形態の歪みに対して触発し続けてきた。身体が鉛の板に方向を与え、一方で鉛の板が身体に方向を与える。鉛のロールは、物質と身体がお互いを矯正しあうことで生まれたものである。
鉛は絨毯とちがい、一度変形させられるともう一度力を加えないかぎり、元の形に戻らない。そのため、鉛の板は、行為の一つひとつで生じた圧力を痕跡として定着させる。《Double Roll》に見られる層の歪みは、過程で生まれた物質と身体の衝突の痕跡であり、映画のフィルムのように出来事や時間を記録するメディアとしてみることも可能なのである。
註1)「ニューマンは自作のなかの垂直要素をジップ(zip)と呼んだが、ジップとは目盛である。観者が表面の横幅を直感的に計測するための物差なのだ。ジップはまた指令でもある。ここに、ジップの正面に立て、そうすれば自分がどこにいるのかが正確にわかるはずだ。なぜならここが絵画の中心であり、と同時にあなたの視野の中心なのだから。ニューマンは、自分が成し遂げたいのは見るものに「場所の感覚」を与えることだと常々語っていた。」
イヴ ‐ アラン・ボワ「「ここにわたしがいる」──バーネット・ニューマンの絵画における側向性」前田希世子編『バーネット・ニューマン』近藤学訳(川村記念美術館、2010年、59頁)
註2)同、60頁
註3)エルンスト・マッハ『感覚の分析』(須藤吾之助・廣松 渉訳、法制大学出版局、1971年、95頁)
Richard Serra Early Work
http://www.davidzwirner.com/exhibition/richard-serra-early-work-6/page/9/?view=works-single