『不完全なふたり』について(2010)
諏訪敦彦監督の『不完全なふたり』(2007)を観た。この映画全体に貫く居心地の悪さと疲労感は、物語としての内容そのものにあるというよりも、人物の身振りや行動が絶えず建築に従属させられるところにあると思う。人物の行動は絶えず建築/フレームに拘束されている。
その最も象徴的なのは椅子の存在だ。固定で、ワンシーンワンカットが基本になっているこの映画では、延々と人々が椅子に座っているシーンが映されている。それによって必然的にカメラはローアングルから捉えられるが、床が作り出す奥行きは巧みに隠され、天井はけして映されない。座ることを強制された人物は耐えきれず何度も立ち上がるが、その重圧から逃れられる感覚はない。絶えずフレームと建築に身振りが抑圧され続ける。
だから、彼らは疲れるから座るのではなく、椅子があるから座らされるのであり、ベットがあるから寝かされる。ドアがあるから出て行くのであり、扉があるから閉める。階段があるからのぼり、階段があるから前を通り、彫刻があるから旋回する。
建築の表象に対して、人物の行動は否応なく対応しなければならないという命令が働いているかのように。人物は休んでいるのではなく、けだるそうに絶えずそのタスクをこなし、その終わらない反復に対する彼らの息苦しさと疲れが観る者に感染するようにできていた映画だった。