「写真という逃走経路(3)」(2009)
ピーター・フィッシュリ(Peter Fischli)&デヴィッド・ヴァイス(David Weiss)が1993年に発表した作品《Siedlungen, Agglomerationen》は、タイトルで示されるようにチューリッヒ郊外にある住宅団地の一群を撮った写真作品です。チューリッヒはスイス最大の都市で歴史がある建造物や美しい風景を見ることができると思いますが、《Siedlungen, Agglomerationen》の写真群にはそのような歴史的な建造物や美しい町並みは写されていません。このシリーズではスイスの特徴的な印象はなく、装飾を排したどこにでもありそうな近代的な建築、没個性的な郊外を撮った写真群です。この風景が、美化されることもなく淡々と撮られている。ありふれている平凡な風景を、スペクタクル性や作家性を排して標準的に記録していくという手法というのは、エドワード・ルッシェ(Edward Ruscha)の写真作品やダン・グレアム(Dan GRAHAM)の《Homes for America》など、コンセプチュアル・アートの系譜にあたる写真作品だということができます。
フィッシュリ&ヴァイスのこの作品を安直な視点から捉えると、質の低いドイツ写真として片付けられてしまいそうですが、彼が試みているのは、ベッヒャー夫妻(BECHER, Bernd and Hilla)はともかくベッヒャー派の作家たちとは少し異なる視点を持っています。
フィッシュリ&ヴァイスの写真をルッシェ、グレアムの写真と比べるとわかることがあります。フィッシュリ&ヴァイスの作品も、確かにルッシェ、グレアムと同様に反作家主義的な写真になっています。ただし、ルッシェ、グレアムの作品では、カメラの機械性と共鳴して、建築物を機械的に写していますが、フィッシュリ&ヴァイスの作品ではそれだけが目的の写真にはなっていません。建築物と自然が同じ割合で写真の中に入れられ、構図も統一されていません。ロケーションの問題も入っているでしょうが、植物や自然が意識化されることでルッシェ、グレアムのようなドライな表現とは別の印象を持ちます。
ルッシェやグレアムの作品は、無駄な要素をそぎ落とし、建物だけに意識がいくように撮られています。水平垂直に構成された写真には、ミニマリズムと共通するようなの造形感覚を見ることができます。けれども同時にそれを可能とする広々とし他の何もない空間とは、それがまぎれもなくアメリカの風景であることを記述していると言えます。
つまり、ガソリンスタンドが撮られている場をニュートラルな場ということはできません。スイスという小さく山に囲まれた地形の元では、アメリカのような水平線を作り出すだだっ広い風景を撮ることはできないはずです。そして、ミニマルな形態を引き立たせるようなあの乾いた風土(光)もスイスにはありません。
マルチプルとして生産されるものを作品するレディメイド的な文脈や、ミニマリズムの造形感覚を写真に定着させているルッシェやグレアムの写真のなかには、同時にアメリカ特有の地形もしくはヴァナキュラーが記述されています(グレアムの作品は、「アメリカのための家」というタイトルになっているから字義通りじゃんと言えるかもしれませんが)。この問題は単に方法論的な問題には還元できません。
《Siedlungen, Agglomerationen》では、意識的に撮影された季節がわかるようになっています。チューリップや紅葉や雪などの具体的に季節がわかるものが写真のどこかに組み込んでいます。それが一年という時系列に配置されることによって、写真のコードはステレオタイプな季節の記号として強く見えてきます。これは必ずしも一年を通して撮影したから、そうなっているわけではありません。冬でも雪の降らない日はありますし、秋に紅葉を取らないことも可能です。このシリーズは、カレンダーの形式と類似していると言えるでしょう(とはいえ、この写真のシリーズは12枚で構成されているわけではなく、もっと多いわけですが)。
たとえば、アンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky)が雪の景色を撮ったり海の景色を撮ったからといって、季節が主題の写真とは見ないでしょう。季節がわかるということと、季節を主題となることは見ることは別です。カレンダー的な時系列に写真を落とし込むことのバカバカしさは、フィッシュリ&ヴァイスの反作家主義的な態度と見ることができます。
また、ルッシェのガソリン・スタンドの写真がアメリカの広さを暗示するとすれば、《Siedlungen, Agglomerationen》では、写真の対象となっている地理的な狭さを感じさせます。
写真に写っている看板や店のロゴマーク、建物のデザインなど(同じ店のロゴの看板が複数の写真に登場している。)によって、一連の写真の空間的な位置関係が直接的に把握できるわけではないにしても、地理的な近さを示唆しています。つまり、《Siedlungen, Agglomerationen》では建築物が空間的なつながりを、植物や天候は季節という時間的なつながりとして機能している。このことによって、建築と自然の問題が同等に拮抗していることがより見えてきます。