オンライン特別講座:高嶋晋一「時間に挿絵をつけるーー時間にとって絵画とは何か?あるいは絵画を見ることにとって時間とは何か?」

蜘蛛と箒企画:オンライン特別講座|2020年9月26日(土)
「時間に挿絵をつけるーー時間にとって絵画とは何か?あるいは絵画を見ることにとって時間とは何か?」
講師:高嶋晋一
 
ヴィルヘルム・ハンマースホイ
《中庭の眺め、ストランゲーゼ30番地》(1899年)トレド美術館蔵、オハイオ
 

【講座内容】

「時間を感じる」とはどういうことだろう。私たちが「時間を感じる」と言いたくなるときが実際にあるとして、しかしそれが見当外れの言い間違いをしている、ということはないのだろうか。時間が過ぎ去った感覚、時間が流れている感覚、時間が先へ先へと進んでいく感覚などはすべて、モノの運動から類推された比喩ではないのか。たとえば、車が目の前を通り過ぎるためには目の位置や車の通る道が必要だが、時間は車のようには通り過ぎはしない。どこかを通るモノとして時間があるのではないし、何かを通り過ぎさせる道としてあるでもない。ここがかえって不気味な点でもあるのだが、時間そのものには「している」という作用も「させる」という強制力も一切ない。つまり、時間のなかで起こる現象を時間に当て嵌めている可能性があるわけだ。だからと言ってそれらを単なる比喩と済ますことができないところが、問題のひとつの肝である。時計の動きも含むそうした現象からの類推をすべて外してしまえば、私たちはそれを経験するための足がかりをあらかた失ってしまう。
もしも時間というものがカントが言うように「内感の形式」だったとしたら、「時間を感じる」とは、感覚することを可能にする条件である形式をも私たちは感覚することができるということになるのだが、私としては現状、時間は考えることはできるが厳密に言うと感じることができないものなのではないかと歯痒く思っている。追い討ちをかけてさらに問い詰めれば、なぜ時間は感覚できないのに、運動は感覚できると言えるのか。予期としてだけあるがいまだないモノ(それを「やってくる車」と把握している)と記憶としてだけあるがすでにないモノ(それを「過ぎ去った車」と把握している)があるだけで、実は類推の前提としていた運動すらも、本当は感覚し得てはいないのではないか。そうだとすれば、いったい何を感じていると言えるのか。興味深いことに、時間を感じようと試みると(時間とは何なのかがよくわからないのは当然のことながら)、「感じる」ということがそもそもどういうことなのかも、不分明になっていく傾向がある。時間を感じることは、なかば無を感じること、というより、何にも似ておらず、あるともないとも言えないものを感じとることだからだ。しかし感覚とは、何を感じているのか、何が感じているのかが不分明なときほど研ぎ澄まされるものでもある。
次のごく単純な一文を読んでみてほしい(できれば黙読と音読の両方で)。「時間は一秒ごとにきっかり一秒過ぎる」。私はこの一文を読むたびに(とてつもなく貧相な時間とは言え)時間が感覚される気がするのだが、それは錯覚だろうか。錯覚だとすればどういう類の錯覚なのか。たとえば「一秒は一秒である」や「一分は六〇秒である」は規範的言明だ。平たく言えばそれはルール説明である。「時間は一秒ごとにきっかり一秒過ぎる」も同じような規範的言明にみえる。しかしこの文は規範的言明を装ってはいるが、そうとも言い切れないところがあるのではないか。この文は、時間とは何であるかを説明しているのか、時間という事実を記述しているのか、どっちつかずのところがある。「一秒は一秒である」と対照させれば明らかだが、それは「過ぎる」という動詞の使用にかかわっている。
規範的言明の特徴は、それ自体は無時間的であることだ。何かについて説明する文章一般が、いついかなるときでも成立する普遍性を希求しているためか、無時間的であろうとする傾向が強い。だが記述的もしくは散文的な文章はそうではない。局所的で個別的な何かが起こっているかのように仮構する(してしまう)。「時間は一秒ごとにきっかり一秒過ぎる」の場合、個別的な情況を喚起する部分はなく、ほとんどトートロジカルで無内容であるにもかかわらず、末尾の「過ぎる」がわずかな、だが確かな事実(出来事)性を付加している。また「きっかり」という形容も重要だろう。なぜならこの形容によって逆に、一秒間に一秒が過ぎ去らないようなケース、つまりルール外のケースが示唆されているからだ。積極的なあるいは確定的な内容をもたないことが「内感の形式」としての時間を感覚するためのひとつの契機になる。この一文を読むためにかかる時間が体感的に一秒あるかないかだということも手伝ってか、一文読み終えた時点で「きっかり」と何かが「過ぎ」た感覚がある。
つまり、見た目は同じような佇まいの文であっても、文にはそれぞれ、時間が流れたり流れていなかったりするのだ。迂闊な言い方なのだろうが、「時間は一秒ごとにきっかり一秒過ぎる」というこの一文自体に時間が内包されている、と私は言いたくなる。裏返せば、私が読むという行為の「現に」成分とでも言うべきものが、無時間的で無味乾燥なこの一文に時間を注入している、という事態としても捉えられるだろう。ここでは詳述しないが、マクタガートの案出した「ある出来事が今、現在だったとすれば、それは未来だったのであり、やがて過去になるだろう」という特異な表記もまた、先の一文がもたらす感覚とやや似たところがある。いずれも、ある出来事が今、現在であるということそれ自体が出来事である、という点に触れているのだ。
さて、こうした些細な言葉の例を踏まえて、しかし言葉に基づかずに、時間を感覚する仕組みをつくることはいかにして可能だろうか。私が今回この講義で行いたいのはいわば、絵画を時間につけられた挿絵とみなして読む、という試みだ。文章についた挿絵ではなく、あくまで時間に挿絵をつけることとして絵画を読めるかどうかに、この試行の可否が問われる。絵画を感受するために時間とは何かを知ろうとすることも、時間を感受するために絵画とは何かを知ろうとすることも、どちらも迂遠な作業には違いない。かつてレッシングが行った「空間芸術/時間芸術」というジャンルの弁別において、絵画は前者に分類されたように、時間は絵画にとって今もって二次的な要素だとみなされているからだ。しかしながら、一秒は一秒であるという無時間のトートロジーから、一秒ごとにきっかり一秒過ぎるなけなしの時間をもぎとることは、絵画を見る経験と決して無縁ではないはずだ。
講義では、エドガー・ドガ(1834-1917)、ポール・セザンヌ(1839-1906)、エドヴァルド・ムンク(1863-1944)、ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864-1916)、ジャコモ・バッラ(1871-1958)、フランティセック・クプカ(1871-1957)、パウル・クレー(1879-1940)、ウンベルト・ボッチョーニ(1882-1916)、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)らの作例を通じて、上記のテーマにアプローチする予定である。

【詳細情報】
開催日時:2020年9月26日(土)19:00-21:00(延長の場合は21:30)
料金:1,700円|年度会員の料金:1,500円
支払い方法:銀行振込もしくはPayPalになります。
オンラインで使用するアプリケーション:Zoom
定員:25名※事前予約制 
aslspbank@gmail.comにメールでのお申し込みをお願いします。
※自動返信メールではありませんので、返信が遅れる場合がございます。

 
 
高嶋晋一|TAKASHIMA Shinichi
1978年東京生まれ。美術作家。近年は、写真家・映像作家の中川周と映像作品を、ダンサー・振付家の神村恵とユニット「前後」名義でパフォーマンス作品を共同制作しているほか、並行して執筆活動なども行っている。主なテキストに「欠如と余計の使い途について」(blanClass+column、2011年)、「コンセプチュアリズムが流産するのは原理上避けえないことなのか?――ジェローム・ベルの方法を端緒として」(Body Arts Laboratory Critique、2011年)、「無条件修復 UNCONDITIONAL RESTORATION」(展覧会ステイトメント、松本直樹・宮崎直孝との共同企画、2015年)、「無条件修復、あるいは反創造/脱破壊」(同前)、「未来芸術家列伝Ⅳ︰未来と未知」(アート・ユーザー・カンファレンス『未来芸術家列伝Ⅳ』、2018年)、「ロスト・イン・ロジスティクス――逆理と逆走の映像論」(中川周との共同執筆、『視点と支点 Venue Issues』、2019年)、「穴に穴を空ける」(同前)、「戦争の顔」「飛行の不安定なパースペクティヴ」「カモフラージュ」(引込線/放射線パブリケーションズ『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』EOS ART BOOKS、2020年)など。 

 

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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