【活動記録:2014】第5回「ASLSP/夜会議」(2014年3月29日)

※蜘蛛と箒の前身となるASPSLの活動記録です。

2014年3月29日にASLSP−アスレスプのミーティング「スキャンダル-芸術と社会」を行なった。

参加メンバー:石川卓磨、小口菜緒実、勝俣涼、狩野愛、川原卓也、木原進、後藤桜子、高木生

芸術に関わる人間、組織、作品が、社会的な事件の当事者になったり、巻き込まれたりすることはめずらしいことではない。芸術が事件としてニュース記事などに取り上げられたときの世間の反応は、完全なゴシップとして、あるいは芸術が成立している社会と、一般的な社会的な常識との落差を嘲笑するネタとして消費し、芸術に内在する根本的な問題が見過ごされてしまうことも少なくない。
また、芸術が社会的な事件を引き起こすことは、単にネガティブな要素だけによらない場合があり、議論するための貴重なケースにもなり得る。なぜなら芸術は、社会的規範から自由を獲得するために、法と法のあいだの亀裂のなかで制作/発表を行うことがあり、また作品が、鑑賞者に能動的な思考を引き起こすためのショックを意図的に与えることもある。そのため、作品制作や作品発表は、社会的にリスクを孕んでいる。このような芸術の性格を、芸術の実践に関わるものたちはどのように引き受けるべきなのか。このことを、必要であれば法律や社会的な規範を一度括弧に入れて議論することを設定した。
 今回は、2時間という充分とはいえない時間のなかで、挙げられた事例は少ないが、そこから導きだされた問題の射程は広く、熱心な討議がなされた。

芸術作品を政治的理由によって破壊することを自分は許容できるか、許容できないか。
例1:ディエゴ・ベラスケス《鏡のヴィーナス》(1647年 – 1651年頃)が、ロンドンのナショナルギャラリー内で、1914年に婦人参政権を訴える女性に切り傷をつけられた。
※ 厳格なカトリック教国であるスペインでは、裸婦像はわいせつとみなされ、厳しい規制があったため、このようなヌードが描かれることはきわめてめずらしかった。
※ また、《鏡のヴィーナス》は修復家の手によって、遠目ではまったくわからないほどに修復が施され、現在もナショナルギャラリーで公開されている。

●表現は、鑑賞者の解釈を引き出すものである。そのため、作品の破壊も鑑賞者の一つの解釈であり、そういうリアクションは起こりえる。危害を加えるのが人間でないのであれば、それは許容できるのではないか。

——では、作品と人間の違いとはなにか?

●マリーナ・アブラモヴィッチの《リズム0》(1974年)は、観客の潜在的なリアクション、見る者と見られる者の関係に孕まれた暴力性を顕在化させるパフォーマンス作品で、この問題と繋がるだろう。
パフォーマンスに際して次のようなインストラクションが提示された。「テーブルの上に72個の物体があります、人は望むままに私の体の上でそれを使うことができます。私は物体です。この上演中、私はすべての責任を負います」。テーブルには大小の鎖、ベルト、鞭、鳥の羽でできたはたき、ロウソク、拳銃などが置いてあった。(《リズム0》マリーナ・アブラモヴィッチ | 現代美術用語辞典ver.2.0)

ベラスケスの《鏡のヴィーナス》の展示にもそういう観客のリアクションを引き出すような意図が含まれている。
この作品が最初に発表されたとき、恐らくは意図的に論争を巻き起こすために「裸婦像 (a nude woman)」として紹介された。この絵のヴィーナスの表情は鏡に映ったイメージとして描かれている(鏡のヴィーナス – Wikipedia)

●作品は見られる対象としてあるだけでなく、作品自体もまた、踏み絵的に観客のリアクションをみて、選別しているといえるのではないか。
そして、作家や展覧会の企画者が、鑑賞者や社会に対して挑発的な意図を組み込むとき、作品の撤去や破壊の可能性を予期している場合も充分にありえる。

——アイ・ウェイウェイは、自らの作品である《色塗られた壺たち》(2008年)がドミニカ共和国出身のアーティストに破壊されたことに対して、犯行に至った動機を否定しつつも、寛容な態度を示した。彼は、作品がトラブルを引き起こす/巻き込まれることについて、つねに覚悟しているからだ。

——作品の破壊によって鑑賞の機会を奪ってしまうことは、なんにせよ許せない行為。否定するにしても肯定するにしても、その鑑賞の機会が奪われることは否定すべきだ。

——その一方で、破壊されることや作品の消失によって、記憶や歴史に残るという逆説があるのも確かだ。

——しかし、《鏡のヴィーナス》のケースは、事件と制作された時代に200年以上の間がある。ベラスケス自身が、そのような挑発を組み込んでいたわけではなく、状況も全く違う。この作品は、もともと限定されたコミュニティーの中で享受されていたものだ。作家自身が破壊の覚悟を持っている場合と、そうでない場合では、許容の判断に違いがあるのではないか。

●作品の破壊がリアクションだとして、なぜ実物の破壊という手段なのか。作品を批判するリアクションであるのなら、作品の複製写真を使っても同じようなことができるし、自らのパフォーマンスや署名活動によって拒否の姿勢を示すことができる。作品を否定する側も、制作者と対等に、表現として否定の表現をすることができるし、それを目指すべきだ。

——作品を破壊でなく反論する場合に、表現ではなく法的な規制や検閲が求められることもある。しかし、法的な規制や検閲が必ずしも適切な手段とは考えられない場合もある。暴力批判が別の暴力を生むというときに、批判している人間自身の存在の首も絞めることはありえる。

●作品が破壊されることを「許容できる/できない」の判断をするときに、作品の質や、ジャンルによる認識の差異が存在すると思う。

社会全体の合意が得られることではないが、これは絶対に破壊されてはいけない作品と、破壊されてもいいと思える作品がある。すべての作品の権利がいわゆる人権と同じように、平等に与えられると考えられない。作品であるならば、無条件に権利が与えられるという考えには反対。
極端なケースをいえば、個人の命を投げ打ったとしても守らなければいけないと感じる芸術作品はありえるし、破壊されて然るべきだと思える作品もある。
また、建築の破壊と、絵画など作品の破壊では、意味が違うのではないか。

——作品の破壊を考えるにあたって、作品の質的判断が、関わるのと同じように、破壊行為におよぶ理由の正当性を問うことも、許容の判断に関わってくると思う。作品の破壊が、一つの政治的な行為であるならば、動機となる政治的な正当性と効果が認められるなら、肯定はできないにしても許容することはありえると思う。

——作品を破壊する行為は、テロリズムと関わっている。その破壊行為によって、それまで潜在的なものでしかなかった意見が主張される糸口になる場合はある。最初に言われたように、これが人命ではなく作品であるのなら、そこに許容する余地は与えられていると感じる。

——少なくとも建築は政治的理由ではないにしても、壊される運命にある方が多い。

——では、金閣寺放火事件などはどう考えるか。

●物理的な破壊は、民衆の側から行なわれる場合が多い。けれども、政府や機関が作品を検閲や禁止によって、作品を表に出さないということも一つの破壊行為と捉えられるのではないか。

——東京都美術館は、中垣克久氏の「時代(とき)の肖像-絶滅危惧種」の作品を撤去した。この美術館側の自己検閲は許されないと思う。作品の発表の機会は、誰にでも与えられると考えるべきだ。

——中垣氏の作品を政治的に見て、あるいは芸術的に見て、擁護や評価できるかはかなり疑問が残る。ただ、中垣氏の作品が撤去された展示というのは、都美が現代日本彫刻作家連盟にスペースを貸しているわけだから、それに介入するというのはありえないと思う。

——音楽は物理的な破壊はできない。そもそも複製技術が流通
システムの大部分のインフラを占めているから。ゆえにロシアなどでは、音楽に対する規制がとても強まっている。また、そうした厳しい環境の中で生まれてくるロシアの音楽シーンからはとても面白い作品が生み出されているということもある。

パブリックな空間と作品発表の間にあるジレンマを巡って】例2:ニューヨークの連邦ビル前広場に置かれた《傾いた弧》(1981年)に対し、地域市民などによる反対運動が起った。セラは表現の自由を訴え、知識人や文化人のあいだではリチャード・セラを擁護する意見も多かったが1989年に最終的に撤去された。このことについてはどのように考えるか。

●クリストのように大規模でハプニング的な事件性を作りつつも、すぐに元に戻せるような手段が必要なのではないか。セラの作品は、あまりにも巨大で、撤去にも莫大な費用がかかる。そのような問題が起ることに対してどれほど予測できていたのか疑問だ。

——カドが立ちやすい作品なら、目立つような場所で展示をしないという選択もありえる。

——ジャッドのようにマーファのような場所で展示すれば問題がないのか?それだとセラの目論みは変わってしまうと思う。

●地元住民の意見を尊重すべきだと思う。

——必ずしも地元住民が正しい判断ができるとは限らない。けれども、地元の住民を説得することは不可欠。

——《傾いた弧》の必要性が、社会や地元の地域から問われたときに、芸術や表現の自由の問題で語ってしまったら、結局エゴとして回収され、相手を説得することはできない。どうやって相手を説得することができるかを考えないといけない。

●セラの作品に、危険性や威圧感を感じたというように、作品から暴力を受けたと感じた、強い不快感を感じたという人の意見を無視することはできるのだろうか。

——たとえば街でホームレスを見て、怖いとか見たくないという意見があるとする。これは正直な感情だとは思う。けれどもその考えによって、ホームレスを排除していいのか。街が安全でクリーンであるべきだという認識を信じて疑わないことは危険だと思う。

——ホームレスなどが、セラの作品を逆に利用して新しい活用法を生むというケースなどはなかったのだろうか。

●作品が設置されるとき美術館の中であるのか外であるのかは、作品の保護に関わる判断として大きく変わる。美術館であれば、値段の設定や年齢制限、注意書きを設けることでゾーニングすることができる。作品の可能性を最大限に保護する方針をとることができる。

——Chim↑Pomのプロジェクトで、原爆ドーム上空に「ピカッ」の飛行機雲で描いたことが問題になったときや、会田誠の森美術館での個展が「ポルノ被害と性暴力を考える会」から即時撤去を求める抗議を受けた時に、美術館側が作品や作家を守るための然るべき態度が徹底されていなかったように感じる。作品への個人的な判断は抜きにして、美術館が作家に展覧会やプロジェクトを委託しているのだから、全面的に保護するという姿勢で行なうべきだ。

——例えば美術展のポスターなどは、駅や人が集まるところに置かれるので、そういったゾーニングは不可能ではないか。それによって不快になる人がいるということもありえる。

——会田誠の作品を撤去しなかったのは美術館側の態度となっている。

——問題が起らないようにするための対処として、美術館の中に作品を置くことが優先されすぎると、その処世術的な意識が、他者性を排除する傾向や、保守的になりすぎることにはならないか。敵対性という想像力が失われすぎると美術は萎縮し、閉じてしまう可能性もあるはずだ。

●作品が美術館で展示されることは、芸術として登録させることを意味する。美術館や歴史に登録されるために、自らのパフォーマンスやプロジェクトを、芸術であると表明することは、いいことなのか。たとえば、外山恒一は「美術手帖」や「ユリイカ」に自分を現代美術家として特集せよ!と訴えているが、これはどう考えるべきか。

——自らが芸術と名乗ってしまった時点で、どこにも位置づけられないような不確定な領域は消えてしまう。だからこれが芸術だと名乗ってしまった途端につまらなくなるケースは少なくないと感じる。外山は、自分を「美術手帖」や「ユリイカ」が特集しないとわかっているから、ああやっていっているのだと思う。それは都知事選の立候補と同じユーモアで、だから彼の活動は、おもしろいと思う。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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