【映画】木下惠介『カルメン故郷に帰る』について(2012)

『カルメン故郷に帰る』(1951年)を観た。僕は、日本初の総天然色カラー映画であるこの作品を素直なコメディなのだろうと思っていたが、観るとかなりシニカルな映画だった。戦後のGHQの占領下にある日本に対する風刺性を持つこの映画が、リアリティを持っていたのであろうことは理解できる。実際この映画では何度も「パンパン」という言葉が出てくる。けれども、日本の被害者意識を映画化することで、戦争責任をなきものにしてしまうという木下に対する大島渚の批判に繋がるようにも思える。
そして、芸術の無理解が大きな主題になっているこの映画は、痛々しいほどのダサさが強調されている。実際こんなに愚鈍な高峰の演技を見るのは初めてで、木下が高峰にいっさいの幻想を抱いていないことがよくわかる。

ストリッパーであるリリイ・カルメン(高峰秀子)が故郷(軽井沢)に凱旋してくる。ストリーパーとは知らない小学校の校長は、文化に従事するしている人が町に来ることはいいことだと彼女を歓迎する。実際カルメン自身も、自らをモダンで高尚な芸術かだと思ってる。しかしそれは裸の王様に過ぎず、文字通り裸になって、ひどい踊りを晒しているに過ぎない。

現に、村人は猥褻なものとしてだけでカルメンをチヤホヤする。村の人たちは裸にしか興味がない。つまりモガの格好をした単なるポルノグラフィーに過ぎないわけだが、そのことに全く気がつかないカルメンは牛に蹴られて以来頭が弱くなったというひどい設定である。カルメンの父親はそれを恥じて嘆き、校長も憤慨する。

また、カルメンの対比として出てくるのが村の芸術家で、戦争で視力を失った盲目の作曲家だ。この作曲家が作る音楽は、故郷を賛美する歌なのだが、ベターっとしてて暗くてひどいものである。つまりカルメンもこの盲目の作曲家もどちらもダメ(それとも、木下はこの作曲家を清く美しいものに見せようとしただろうか)。にもかかわらず、校長は文化=健全としか考えないず、芸術を見ることはないのでその盲人を称揚する。

この盲目の作曲家とカルメンの関係は、町の健全さを守ろうとする校長と軽井沢で観光業を構想している資本家の対立と結びついている。資本にものをいわせ、作曲家からピアノを取り上げ、金儲けのために、カルメンにストリップの興行を行わせる。芸術だと信じているカルメンは、その資本家の猥褻な思惑などいっさい考えない。しかし、ストリッ プの興行によって、すべては丸くおさまることになる。なぜなら、そこで得られた利益で資本家が心をよくし、貧しい作曲家にピアノを返すからだ。作曲家の妻は泣いて喜ぶ。それによって、校長も新しき芸術=ストリップの効果を認める。観客は裸を観て喜んだに過ぎないが、カルメンは自分の芸術を見せたことに手応えを感じ、なんにも気がつくことなく意気揚々と東京に帰っていく。

すべてが無理解と誤解であるにもかかわらず、すべての人間に利潤を発生させることで、この映画はハッピーエンドとして終わる。晴れたすみきった青空の下での明るい色彩までもが一つの皮肉にも見えてくるこのコメディー映画は、トッド・ソロンズの「ハピネス」にまで結びつくかもしれないなぁと、ふと思ったりもした。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

シェアする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

コメントする