批評ゼミ通信講座|選抜評論:録音の身体と思考 フィールドレコーディングをめぐる対話からの考察/植松由希子

録音の身体と思考 フィールドレコーディングをめぐる対話からの考察
植松 由希子

 

先日フィールドレコーディングについての入門書(※1)とその本やフィールドレコーディングにまつわる対談のイベント(※2)に行ったよ。

フィールドレコーディングって最近よく聞くけど、あまりよく知らないかも。

それがね、フィールドレコーディングって、結構幅広くて、かつ、細分化された定義があるみたいなんだ。

フィールドってことは場所と、レコーディングで録音って意味だよね。場所を録音するの?

場所は場所でも、レコーディングスタジオやコンサートホールのような、音の響きが人為的にコントロールされた場所ではない場所の録音がフィールドレコーディングって言ったらいいのかな。スタジオ録音に対するフィールド録音。フィールドは屋外とか野外だけじゃなくて、屋内でも当てはまって、日常音なんかの空間で発生する音があるし、場所や空間の響きが、人為的にコントロールされず、変化する場所のことだよ。でも、レコーディングスタジオの中で、人為的にコントロールされない音、例えばアンプのノイズだったりを録音すると、フィールドレコーディングとも言える。

ジョン・ケージの『4分33秒』みたい。あれは音楽の演奏を聴かせるといって、ピアノの前に座って沈黙しつつ、その場にいる観客の咳やくしゃみなんかの環境音を聴かせる。つまり音楽としては沈黙しているけれど、音としては沈黙しておらず、その音を現代美術と定義したね。

そうそう。それは対談でも言及されていて「フィールドレコーディングは音楽か音楽ではないか」を意識的に繰り返し問うてたよ。

つまり、どういう状況のどういう音をどう定義するために、何を意識するかが重要になるみたいだね。

それから、もう一つ録音という視点がある。録音は録音機材と録音技術を通して録音者の選択と操作が反映され、思想、価値観、思考、録音者と対象との関係性などが録音内容に反映される。その録音された音を加工することも出来るし、音の加工と非加工もポイントだ。

フィールドレコーディングって、音の風景とか場所の音をそのまま採取するような、ナチュラルなイメージがなんとなくあったけど、そうではないんだね。

そうだね。フィールドレコーディングの目的もさまざまあって、それによって録音された音も違う印象がある。学術的な目的では、フィールドワークに付随する録音がある。民族音楽学者による世界各地のうたや音楽の録音、人類学者、民俗学者、社会学者によるオーラルヒストリーの録音、鳥類学者による鳥の声の録音、生物学者による生物の発する録音、生態音楽学者によるサウンドスケープの録音など。録音者と録音物の関係性がある。それから、その録音物は分析されて、五線譜の音階だったり、文字起こしだったり、周波数スペクトルの解析だったり録音物が別の形に変換されて研究対象になるよ。

えらく細かいね。

それだけじゃなくて、音楽やアート、映画や放送、それ以外にもあるよ。実験音楽や自然音や環境音はそのまま効果音にもなるし、編集や加工されて楽曲や演奏の素材にもなる。サウンドアートやメディアアート、サウンドデザインなんかさまざまな形になるし、録り鉄は電車のモーター音などを録音して楽しむ人たちだし、身近なところにもフィールド・レコーディングの要素は広がっているよ。

今度はとても幅が広いね。

録音はトーマス・エジソンが蓄音機を発明して、音の記録と再生が可能になったことから始まって、それは1877年だ。そこから音の記録の歴史がはじまるのだけど、音楽主はそれ以前から歴史があって、さらに声や音や音楽はもっとずっと前から存在している。

録音の歴史は比較的最近に始まって、音楽の歴史とは異なるということだね。

そう。音楽でも、民族音楽と民俗音楽は異なっていて、民族音楽はある民族の文化の中で芸術として位置づけられた音楽で、民俗音楽は、わらべうた、子守歌、民謡などの階層社会に属する集団にある伝統音楽を意味する。

さらに音楽の中にも分類概念がいろいろあるんだね。

この対談で一番感動した話の一つに、ジャンケンの話があったよ。

なんでジャンケンなの?

ジャンケンはビートもあるし、ルールもあるし、アンサンブルも出来るし、歌詞まであるけど、これは音楽なのかそうでないのか。はたまた音楽であるかの線引き自体をすべきかどうか、という話。その指摘が妙に感動したのだけれど、なぜ感動したかを考えると、その視点にはずっと前から存在していたにもかかわらず、気がついてなかったことが、分析することで気がついた過程の鮮やかさがあるからだね。それは、フィールドレコーディングが何かっていう、幅広いのに細かい定義のその思考の過程にとても似ている。

話を聞いていて、この前読んでいた本を思い出したよ。

どんな本?

その本はコミュニケーション学について、本来なら研究対象とされるマイノリティ側の人たちが、マジョリティの行動を研究する本(※3)だったのだけど、その中に、聴くことについも書かれてたんだ。聴覚障害って聴こえるか聴こえないかのall or nothing だけではなくて、聴こえるけれど、聴こえ方が普通の人とはちょっと違う、というケースもある。

確かに。そうなると聴こえ方の違いが重要になってくるね。

そうそう。普通の人はどういう聴こえ方をしていて、自分はどういう聴こえているのか、という聴こえ方の違いを通して考えることは、身体を通して考えることであり、それは自分の身体を取り巻く社会や他者のことを考えることに繋がっているんだと思う。この聴こえ方の違いの探り方が、さっきからAが話してくれている音について慎重に把握していくことと共通しているように思えてきたんだ。

そういえば、先日の対談でも、フィールドレコーディングで録音された自然音や環境音と、実際の現場での生の自然音や環境音は、異なる音だという指摘があったよ。フィールドレコーディングされた音は、録音という行為によって加工された音だからね。フィールドレコーディングされた自然音や環境音は無加工のように聴こえることがあるかもしれないけれど、実際の自然音や環境音とは異なる音だし。でもそれって、音の種類の違いでもあるんだけど、言い換えると、聴く身体の違いでもあって、現場と身体の直接的な関係から聴く音なのか、現場と身体の間に録音を挟んで聴く音なのか、という違いでもあるのかも。

正常な身体って社会規範が決めていて、社会的規範と個人の意思の両方の兼ね合いの元に、芸術は芸術として成り立つものだとしたら、芸術を創造する側の身体と同様に、芸術を享受する側の身体も重要だと思うんだ。どちらの身体も思考の基盤になりうると思うからね。

聴くという行為を大衆化し過ぎずに、聴く側各々でもっと慎重に分析することが出来ると、それはもしかすると、フィールドレコーディングの延長にあるのかもしれないね。音楽か音楽ではないかを繰り返し問いながら、幅広い対象への細分化された定義を思考するフィールドレコーディングのね。

あと、これも思い出したんだけど、現在の文化人類学の話でね。80年代までは異文化の研究でよかったところ、冷戦が終わってグローバル化する90年代以降になると、異文化の研究という考え方だと不十分になってくるんだ。そこで「文化」という枠組みを外して考えることの重要性が出てきた。「文化」というと、相手を尊重して、自分と切り離して考えないといけなくなるけれど、「文化」ではなくて「存在論」として受け止めることで、自分がその事象をどう引き受けるかを考えることが可能になるし、それに人間の行為である文化という概念を外すと、人間以外も研究対象になってくるっていうことがあるそうだよ(※4)。

それはおもしろいね。

そう考えると録音は技術だし、それに録音機材も機械だから人間ではないんだけど、なんだかさっきから聞いていると、録音という身体が存在して、音楽や音について人間のように人間と一緒に問いや定義を繰り返して思考する存在のようにも思えてきたよ。

それはおもしろいね。録音は録音者と録音対象の間、もしくは、録音者と聞き手の間、といった間に挟まって二者を繋いでいるのだけど、録音を独立した存在として考えて、録音、録音者、録音対象もしくは聞き手、という三者間へと関係を広げることでもあるように思えてくるね。そうやって人間でないものを巻き込んで、人間の思考と感覚世界を広げようとすることが、フィールドレコーディングにおいて重要なことの一つなのかもしれないね。

 

※1:柳沢英輔(2022)『フィールド・レコーディング入門 響きのなかで世界と出会う』フィルムアート社
※2:『フィールド・レコーディングを巡る対話』対談:大友良英 × 柳沢英輔 公演日:2022年9月4日 会場:外 Soto
※3:綾屋紗月編著(2018年)『ソーシャル・マジョリティ研究 コミュニケーション学の共同創造』金子書房
※4:『NMAO トーク・マラソン2022』対談:田中晋平×箭内匡 公演日:2022年9月10日
【上記以外の参考文献・参考展覧会】
伊藤亜紗(2018)『どもる体』医学書院 
伊藤亜紗(2019)『記憶する体』春秋社
ドミニク・チェン(2020)『未来をつくる言葉』新潮社
国立民族学博物館の特別展『しゃべる人 ーことばの不思議を科学するー』展 会期: 2022年9月1日(木)ー2022年11月23日(水) 

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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