【映画】『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』と『ドラゴンタトゥーの女』について(2012)

スウェーデンの小説家スティーグ・ラーソンの推理小説『ミレミアム』(2005年)の第一部「ドラゴン・タトゥーの女」を映画化した『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』(2010年)と『ドラゴンタトゥーの女』(2012年)を観た。同じ原作を映画化した作品をこんなに短期間で続けてみたのは初めての経験だった。それは、同じ作品を続けてみるのともまた違う、なかなか貴重な経験だった。
先に制作され、上演されたニールス・アルデン・オプレヴ監督の 『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』を、デイヴィット・フィンチャー監督はよく観ているし、敬意を払っていることが『ドラゴンタトゥーの女』を観てよくわかった。フィンチャーは、リメイクではないにしても 『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』を尊重しつつこの映画を撮っている。
同じ原作を撮っている以上の類似性がこの2つの映画にはあったように思える。ただ、その2つの映画の違いも明確になっていた。
これは単に作品の違いに留まらず、文化の違いにも関わっている。映画で描かれる象徴的な犯罪とは、どこかしらドメスティックな文脈を含んでいる。例えば日本映画で銃の乱射事件を描けば、ほとんどの人がアメリカ映画の影響だと思うだろう。
実際、スウェーデンのスタッフたちにとって『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』が単なる作品ではなく、スウェーデンの文化の象徴的な存在であり、これがハリウッドで翻案されることに警戒心を持たれていたとフィンチャーは語っている。
そして、フィンチャーの『ドラゴンタトゥーの女』は、アメリカの映画だということを強く感じた。殺人や性暴力に対する距離感が、いつもハリウッド映画で感じているものと同じものになっている。だから、アメリカ合衆国で実際に起きた連続殺人事件であり、ダティーハリーのモチーフにもなったゾディアック事件を描いた『ゾディアック』とつなげて語っても何ら支障のない映画であった。原作を読んでいない自分にはどちらの作品が原作に忠実であるのかはわからない。しかし、オプレヴ監督の『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』は極めて洗練された形で映画化されているにせよ、そこで描かれている暴力性は、ハリウッド的なものとは手触りが違ったものを含んでいると僕は思った。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

シェアする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

コメントする