「写真という逃走経路(5)」(2009)

 家族アルバムは社会的想い出の事実を表現する。家族写真の説明つき紹介、すなわち新しい家族のメンバーに課せられる一体化の儀式ほど、失われた時間の自閉症的探求に似たものはない。年代記的秩序、すなわち社会的記憶の「理性的秩序」に従って分類された過去の写真画像は、保存されるに値する出来事の想い出を喚起し、伝達する。というのも集団は、過ぎ去った統一の記念碑の内に、統一作用の一要素をみるからであり、あるいは同じことだが、現在の統一の確認をその過去から受け継ぐからである。それゆえ家族アルバムほど儀礼にかない、心を落ち着かせ、模範的なものはない。秘密の特殊さの内に、個人的想い出を隠しもっている特別な出来事はすべてそのアルバムからは追放されており、共通の過去、あるいは過去の最大共通項と言ってもいいが、そうした過去は、忠実にもしばしば訪れられる墓碑がもつ、あの殆どなまめかしいまでの明るさを持つことになる。
(ピエール・ブルデュー監修『写真論ーその社会的効用』)

1.
 ハンス・ペーター・フェルドマン(Hans-peter feldmann)の《Porträt》(1994)は、フェルドマンの友人である女性が、1944年から1994年までの50年間に撮られた写真を集め、構成したアルバム=アーカイブ作品です。1994年の初めの写真は、生まれてすぐの写真であるので、ほぼ0歳から50歳までの写真だと考えられます。
 0歳から100歳まで、101人の白黒のポートレイト写真を並列に展示したフェルドマンの《100Years》(2004)の前にある作品として《Porträt》を考えられます。
 《100Years》は、101人が100歳の各年齢に当てはめられて写真が集められているため手法としては、初期クリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltansk)の《10 Photographic Portraits of Christian Boltanski》と関係づけられますが、フェルドマンの場合作品の時間的なスパンの長さと写真の量の多さによって、ボルタンスキーの写真よりも見えてくる要素がより思わせぶりな部分がありません。そこでは実人生に含まれる要素の欠如はあっても、ボルタンスキー的なブラックボックス化がないのです。写真は、それがすべてだと言わんばかりに、あっけらかんと結晶化されている。それがフェルドマンと、ボルタンスキーとの態度の違いと考えられるでしょう。

 《Porträt》で集められている写真は、そのほとんどが家族写真や友人との写真などで、いくつかはプロのカメラマンが撮ったであろう写真が入っていますが、一般的な意味で個人的な写真だと言えます。
ここでは、写っている女性の半生が集約されている。彼女の人生はこの写真群を見ていると、幸福に満ちた時間の流れを感じる事ができます。彼女のことを知らないのに、この写真集を見ていると幸福感を強く感じるのです。
 しかし、この幸福に満ちあふれた人生の感じは、別に彼女でなくても他の女性の写真を集めてもそう見えるのではないか。なぜなら、このような個人的な撮られる類いの写真というのは、類型的で撮られる状況は、だいたいみんな限定され似かよっているからです。
 悲しい時やつまらない時に、自分たちの姿をわざわざ写真に収めようとは普通思いません。そういった写真を撮るのはアラーキーやナン・ゴールディン等の写真家がすることであって、素人がすることではありません。何かの記念となる出来事、留めておきたいと思う状況があるから人は写真を撮る。ゆえに、人生における抵抗や行き詰まり、過酷さみたいなものは抜け落ちて、家族アルバムは人生の最良の時間が断片として束ねられる。
 《Porträt》の主人公となっている女性は、写真に撮られることに対して積極であるとは思いますが、写真に撮られているシチュエーションはかなり類型的です。

ごく普通の実践が行なわれる際の規則性にまず驚かざるをえない。これほど型にはまった、従って個々人の意図がもつ無政府状態に委ねられることの余りない文化活動は少ない。写真を撮る人の三分のニ以上は、機会順応主義者で、彼らが写真を撮るのは、家族の記念行事や友達の集まりの機会、また夏のヴァカンスの時などである。

 ブルデューの『写真論』書いているこの家族写真の類型性について書かれていることは、《Porträt》の写真でもそのまま反映されています。

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2.
 また、この一群の写真で被写体となっている彼女は、常に自分と何かしらの共同体/集団(家族、学校、友人、職場、恋人など)と結びつける状態にあり、その距離が写真のなかに登録されています。つまり、旅行に行っていようと、部屋の写真でも、そこではある共同体との接続の意識がたえず働いています。なぜなら、彼女はカメラを三脚などにおいて、セルフポートレイトを撮ることはないからです。
 それは家族だけに限りません。年齢によって彼女が身を置く共同体は変わっています。
 初めは家族写真が中心でしたが、思春期ぐらいから友達や恋人との写真が増えてきて、就職や子供ができることによって身振りや服装も徐々に変わってきます。そして再び家族(家族写真)の中に彼女が戻っていく。年齢とともに家族の中での役割、立ち位置というのが、変化していく感覚が写真のコードとして読み取ることができます。
 家族写真(過ぎ去った統一の記念碑)の内に、統一作用の要素をみるのは、むしろ現実では離別、離散という不可避的な変化が前提となっているからです。家族を主体とするのではなく、ひとりの女性のアルバムとして写真が集められるとき、統一作用よりも彼女と家族や社会的な共同体との距離感の変化が現れます。
 また、家族という共同体では各々が秘密を持っていて、すべてをオープンにされるものではありません。たとえば、性的な関係はまさにその中心にあります。
 彼女は何人かの男性と親しい関係になっているはずですが、それら男性遍歴を示す写真が一つのアーカイブとしてまとめられ、比べることは普通であればあまりしないことです。そういう暴露的な自伝もこの写真集には含まれています。
 この写真集では、家族写真と非家族写真のアルバム的な区分けが排除され、すべての写真がフラットに並べられています。
 家族写真と非家族写真では、彼女の身振りや表情は異なり家族との距離感が明らかに異なるように思えます。フラットに並べられているからこそ彼女が今何の共同体に接続しているのかの違いが強く見える。
 その象徴的な1枚が、この写真集の中で唯一彼女が乳房を露にしている写真ではないかと考えます。この写真は誰が撮っているのかもわからないし、なぜ撮られたのかもわからない写真です。彼女はカメラマンに自分の乳房を意識的に見せているようにも見えるし、撮られていることに驚いているようにも見えます。もしくは特に撮られることに関して何の違和感も感じていないようにも見えます。この写真が特になぜ撮られたのかわからない状況になっており、これは他の写真とは相容れない特異な印象を持っています。
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3.
 ひとりの女性の人生において、彼女が所属する社会的共同体との距離や自意識の変化と、一貫性をみるフェルドマンのこの作品と対照的な作品として、ニコラス・ニクソン(Nicholas Nixon)が撮り続けている姉妹のポートレイト写真のシリーズをあげることができるはずです。
 フェルドマンの写真作品は、写真の物質的な時間経過が消失され、画像としてフラットな時間軸を組み立て、50年という歳月がまるで一瞬のように過ぎていく感覚を作り出している。そこでは、幸福に満ちあふれている写真が、まるで走馬灯のような儚さを持ってフィクションを作り出しています。ゆえに家族写真のセンチメンタリズムを引き出しています。一方で、ニクソンの作品では、家族という共同体の変わらぬ結束力と統一性という理念的でモニュメンタルな思考と実存的な時間が、写真という特性の中で統合され一つの神話を作ろうとしています。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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