高村光雲「その頃の床屋と湯屋のはなし」について。

最近キンドルにようやく慣れ始めてきた。キンドルはデジタルなのでインターネットで購入するものなのだから、海外で日本語の本を購入するのは簡単だろうと思っていたらそんなことはなく、デジタルはデジタル固有の事情があって、海外で日本語の書籍を買うのは手間だということがわかった。そのため、最近はいろいろと本をダウンロードしているが、一年分の本を購入するつもりとはいえ、そんなにたくさん出費するわけにはいかない。そのため青空文庫から大量に選んでいる。もちろん有料の本も買っているが。
そんなに沢山ダウンロードしても、日本近代の本ばかり読んでいたら飽きるのではないかという心配もある。しかし、アメリカにいながら明治や大正のを読むのもなかなか悪くないかもしれない。この期間だからこそ読むことができる本もたくさんあるだろう。
今年は、仕事のための具体的なリサーチや、流行りの思想書などを気にせず好きな本だけを読む一年に基本的にはなる予定だ。だからこそ、こういう制約はむしろ自分にとっては好条件だと受け止めている。
ちなみに今年の哲学書の課題は、カントを落ち着いて読むことが一つの目標になっている。キンドルは意外と哲学書が少ないようなので、何を選ぶかは迷いどころだ。そして古本がないのも厳しい部分だ。

そのようなかで、全く期待せずに青空文庫からダウンロードした高村光雲の『幕末維新懐古談』なのだが、今集中して本を読める状況にない自分にとって思いのほか楽しい本であることがわかった。特別何がおもしろいとも言えないのだが、幕末や明治の生活が伝わる些細な記述が端的に書かれていて気分転換になるのだ。
一つの話が4〜12ページほどの短いもので、オチらしきものがなかったり、些細な記憶の話が多い。高村光雲といえば、近代日本彫刻を代表とする彫刻家であるので、偉そうなことが書いてあるのかなと思いきや、意外と庶民的な感覚にあふれている。生活と彫刻の話の塩梅もよく、アメリカに行くまではこの本を寝る前の楽しみに過ごそうと考えている。

『幕末維新懐古談』の随筆におもしろいものがあれば今後も気軽に紹介して行きたいが今日は、『幕末維新懐古談』のなかの「その頃の床屋と湯屋のはなし」を紹介したい。この前映画館と銭湯は似ているという話を書いたのでこの繋がりはなかなかいいとも思った。
床屋には当時からいろいろな情報が集まり、床屋主人はその媒介者となり、さまざまな世話を焼くものだった。そして髪は土間で切られ、夜は燈心一つだけの光で髪を切っていたという。それでも意外に仕事はできるらしい。部屋が暗ければ眼が明るくなり、環境が明るくなればなるほど人間の眼が暗くなる。ゆえに昔が今より不便ということではなかったと高村は言っている。こういう短い記述になかなか雰囲気があるのだ。
そして、湯屋の話では、湯屋にある柘榴口(ざくろ口)について書かれている。柘榴口とは、調べてみると以下のような意味である。図としては下の挿絵を見てほしい。

江戸時代の銭湯で,浴槽の前方上部を覆うように仕切り,客がその下を腰をかがめてくぐり抜けて浴槽に入るようにした入口のことをいう。湯がさめないように,狭い入口となっているのが特徴で,明治以降は衛生的でないとして,この形式の銭湯は禁止された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


そして高村は柘榴口の由来の話をする。柘榴口とは浴場に入る時に、潜って入るものである。江戸の人はこの「かがみ入る」姿勢を「鏡入る」へと言葉遊び的に置き換えた。「鏡入る」とは、鏡の国のアリスのような楽しい想像力を喚起させてなかなかよい。
そして、当時は鏡磨き師という職業があり、彼らは昔から鏡を柘榴の実で磨いていたので、これが柘榴口になったと高村は説明する。ずいぶんとハイコンテクストな言葉遊びだと僕は感心してしまった。このような言葉遊びは、極めて江戸時代的な感性を含んでいるが、庶民がこのような高度な言葉遊びを行い、それが普及していくのだから、そのことに改めて驚きを覚えた。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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