批評ゼミ通信講座|選抜評論: 回転とギャグ—ブルース・ナウマンの《Anthro/Socio》、デュシャンの《コーヒー挽き》/ 外島貴幸
回転とギャグ—ブルース・ナウマンの《Anthro/Socio》、デュシャンの《コーヒー挽き》
外島 貴幸
実物を見たことがないにも関わらず、作品に関する情報だけでも「好き」と言ってしまいたくなる様なタイプの作品がある。ブルース・ナウマンの《Anthro/Socio》は、美術手帖に掲載されたほんのちょっとした紹介だけでも、笑いとともに「いいね!」とでも呟きたくなる様な情動を、私にもたらした。
この作品には、二つのバリエーションがある。1991年にMoMAの「Dislocation」展で発表された《Anthro/Socio: Rinde Facing Camera》と、その翌年のドクメンタでの、《Anthro/Socio: Rinde Spinning》である。*1
どちらも、複数のモニターとプロジェクションされた壁面に、パフォーマーでオペラ作家でもあるリンデ・エッカートの顔がアップで写しだされる。画面によっては上下が反転しているものもある。エッカートは、オペラ風の発声で短いセンテンスの言葉を繰り返し歌っている。「私に食べさせろ、私を食べろ、人類学」(”FEED ME, EAT ME, ANTHROPOLOGY”)と、「私を助けろ、私を傷つけろ、社会学」(”HELP ME, HURT ME, SOCIOLOGY”)という二つのセンテンスである。
最初にMoMAで発表されたものと、翌年のドクメンタのものとで、今記述した点は変わっていない。では何が両者で違うのかといえば、ドクメンタの際の作品のサブタイトルに《Anthro/Socio: Rinde Spinning》と示されているように、「リンデ・エッカートが回転しているかしていないか」なのだ。
どういうわけか、ドクメンタでの展示では、歌っているエッカートが水平に回転している。カメラが周囲を回っているのか、彼の足元に回転する台があるのか、そこはいまいち判然としないが、ただとにかく回っているのだ。表象として記述的に分析される際には、この回転の付加にはほとんど「意味が無い」様に思われる。
しかし、むしろこの「意味の無さ」が決定的に重要だろう。記述としては意味が無いにも関わらず、回転している方が圧倒的に良くなっている、と感じるからだ(最初に書いたように、私は実際に会場で見たことは無いにも関わらず!)。それは、何かが回転しているととりあえず謎のハイテンション感や祝祭感が発生するから、という理由だけではない。
そもそも上下が反転しているのは、この映像作品で使われている言葉=「私に食べさせろ、私を食べろ、人類学」、「私を助けろ、私を傷つけろ、社会学」が、『食べる-食べさせる』、『救う-傷つける』という関係性、意味の反転をイメージとしてなぞっているから、と考えられる(ちなみにここで「人類学」「社会学」と名指されているものと「アート」との距離感を批評的に取り出している点も、私がこの作品に関心を持った理由の一つである)。
Bruce Nauman 《Anthro/Socio: Rinde Facing Camera》 (1991)
Bruce Nauman 《Anthro/Socio: Rinde Spinning》 (1992)*上記二つの画像はyoutubeの動画よりスクリーンショット
重要なのは、回転することは、「方向を失う」という空間感覚の錯乱、喪失でもあるという事だ。「方向」とは、我々が把握している空間を上下左右として意味づけ、階層化することでもある。それは物理的な空間としてだけではなく、言葉の空間においてもその様に機能しているだろう。
マルセル・デュシャンもまた、「ロトレリーフ」に見られるように、回転に対する関心が高かった芸術家だった。レディメイドを吊るして回転させ、照明によってその影を投影させた展示空間、あるいは椅子の上に固定された自転車の車輪。また、コーヒー挽きを描いた絵(1911)では、回転の方向を示す為の矢印を、平気で描いている。フランス語で”sens”は、「意味」と「方向」という二つの意味を持った言葉だが、ここでは”sens=意味/方向”を固定しない運動としての、センスとナンセンスを巡り続ける遅延としての「回転」というモチーフを見出すことができる。
Marcel Duchamp 《コーヒー挽き / coffee mill》 (1911)
補足的に述べると、こういった固定から逃れるような流動性は、ある意味「クィア的」とも言えるかもしれない。「クィア」という言葉を組み込んで考える時、デュシャンが「ローズ・セラヴィ」として女装し、その名で作品を発表していることもまた想起されるだろう。ただ一方で、「クィア」は必ずしも軽やかというだけではなく、倫理的・政治的な緊張感を伴った言葉でもあるので、デュシャンにおける固定化されない遅延=意味のズレとは、いささか事情が違うかもしれない。
話題を戻すと、矢印ではなく、方向や対象を指し示す手を直接的に描いてる《Tu m’(お前は私を…)》(1918)というデュシャン最後の油彩も、指示=方向という文脈で解釈することができる。一見してわかるように、この絵では上下左右、奥行きが判然としない空間に(描かれているものはほとんどデュシャンの作品だが-遠近法的には描かれていない積層したカラーチャート、また前述した車輪の影も)ただ何かを指し示す手が画面中央下部に、極めて記号的に描かれている。つまりここではただ指示だけがあり、それはこの絵の題名、《お前は私を…》が「主語+目的語」しか表しておらず、「何をするのか」が書かれていない、いわば「指示=方向」だけがある事と相同的であると言えるだろう。
Marcel Duchamp《Tu m’(お前は私を…)》(1918)
《Tu m’(お前は私を…)》は、上下を逆転させても、左右を反転させても、恐らくほぼ「変わらない」絵画として機能する。この作品自体は回転していなくとも、空間=意味の上下左右、遠近を通常の配置からは周到に遠ざけているからだ。
指示と方向、その意味付けを逃れるものとしてあるような「回転」。この文章の冒頭で、『笑いとともに「いいね!」とでも呟きたくなる様な情動』と、私は書いた。この情動は言うまでもなく「笑い」における方向喪失、軽やかなセンス/ノンセンスの揺らぎにもつながっている、そんな直観があったからだが、これ以上は私の作品の話にならざるを得ず、ここではひとまず終わりにした方が良いのだろう。
*1 二つの展示風景は、以下のリンクから見ることができる。
“Bruce Nauman – Anthro/Socio (Rinde Facing Camera)”
https://www.youtube.com/watch?v=VD7U5mcEepU&t=4s
“Bruce Nauman ‘Anthro / Socio. Rinde Spinning’ 1992 “
https://www.youtube.com/watch?v=XGRjpVr5qMk