「写真という逃走経路(8)」(2010)

 ジョン・ヒリアード(John Hilliard)は70年代のコンセプチュアル・アートと写真の関係において、必ずといっていいほど言及される作家です。
 当時、写真の記録性が素朴なレベルで信用を与えられていたことに対する批判意識として彼の作品は登場します。
 同じ状況を写した複数の写真が、トリミングの微妙な違いによって伝わってくる意味内容が異なってしまう。あるいはピントがあわせられる場所によって、同じ状況の写真でもそこに含まれる意味や心理作用が異なってくる作品を作っていました。
 彼の作品の多くは、サスペンス映画的な雰囲気/シチュエーションを含みながら、マイケル・スノーなどの構造映画と同様に自己言及的で構造的な枠組みを強く持っています。
 それらの作品は、写真における自己言及的な問いを持っており、あまりにも構造が前景化されています。そのため、作品は確実性の保留を意図しているがトリッキーな技法が強く見え、試みが確定的なものとして見え過ぎる。このことによって作品は逆に単純なものとして回収されてしまうところが多分にあるように思えます。そして、カラー写真でしっかりしたフォーマットになればなるほど、そのトリッキーさは露骨に見えてくる。
 ただ、一方で構造的な問題を隠すことなく中心に据えてきた彼の作品は、本当に構造だけの問題として片付けられるのだろうか。そうであるならばこれほど飽きずに地道に作品を作り続けることができるのだろうか。そう考えてみたくなるところがあります。ヒラヤードの写真の中で問題としてる不可視な穴。複数の画像が意識の中で重ねられる/比較されることによって、隠れるもの、浮き上がってくるもの、間をつなぐもの、それらの関係はサスペンス的なものと絡み合って構造以上の感覚が付与されています。
 2000年以降の多重露光を中心にした作品は、失敗してるものもありますが、すごく手応えを感じる作品がある。それは、トリッキーな構造によって隠されている部分/不確定な部分がシンボリックに、確定的な枠組みとしてたち現れるのではなく、不均等に重ね合わされている部分と部分が、そのコントラストにより有機的に関係づけられ、複合的な意味を形成しているところにあります。そのことにより諸処の要素にそれぞれ明確な役割が与えられるのではなく、見る側の意識の中で組み立てられるようにして役割が形成されています。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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