ドガとニューオリンズについて
機内で読んだ雑誌の記事に、全米で最も古い市のひとつであるニューオリンズは、今年設立300周年を迎えたと書いてあった。ニューオリンズがそこまで古い都市だとは知らなかったが、ジャズの発祥の地であり、またハリケーン・カトリーナや貧困の印象も強い街である。
ところで、先月僕はエドガー・ドガの《ニューオリンズの事務所の人々(綿花取引所、オフィスでの肖像)》について少し調べる機会があった。タイトルからもわかる通り、この作品ではニューオリンズの綿花取引所が描かれている(ドガはこの作品を1876年の印象派展に出品している)。
ではなぜフランス人であるドガがこのような作品を描いたのか。それは彼が1872年に5ヶ月ほどニューオリンズに滞在していたからなのだ。彼がアメリカに赴いたのにはもちろん理由がある。
一つはドガの弟と関係する。ドガと弟ルネは、南北戦争の際にアメリカから亡命してきた母方のいとこのエステルと初めて出会う。そしてルネとエステルは恋に落ち結婚することになる。ルネは父親の銀行業をつぐことなく、戦争が収束後にニューオリンズにエステルとともに移住した。叔父の提案によってドガのもう一人の弟アキーレとともにワインとコットンの貿易会社を設立した。ドガの渡米の一つの大きな目的はルネの家族に会うことだった。
もう一つはドガの母親の存在だ。彼女も同様アメリカ出身であり、彼女の親族はニューオリンズで名を馳せたクレオール人(ここでのクレオール人とは、フランスではなく植民地であるルイジアナ州で生まれ育った人々の意味を持つ)だった。彼女は、ドガが13歳の時になくなってしまう。このことはドガの人生に大きな影響を与えている。
かつてニューオリンズはフランス領であり、その後スペイン領になるのだが、結局フランス系住民が多かったため、スペインの影響はあまり見受けられずフランスの影響が強かった。ドガにとってニューオリンズという土地は、母親の影響から憧れと郷愁の念が生まれ、決して小さいものではなかった。そのために、ドガにとって渡米は一つの帰郷を意味していた。ドガはニューオリンズの自然に感銘を受けたが、それと同時にコレラなど感染症の流行にも驚かされたようだ。
当時ニューオリンズは南北戦争が終わって10年も経っていない時期であった。そして、ニューオリンズの綿花取引は、南北戦争以前は国内最大の規模であったが、戦争による農園の荒廃、奴隷労働の消滅などによって大きな損害を受けた。ドガの親族にとってもそのことは無関係ではなかった。ルネは、結局事業に失敗し続け、親から借金をするがそれでも立ちいかなくなった。ドガの遺産の半分はこのルネに与えられている。
スティーブ・マックイーン監督の『それでも夜が明ける』(2014年、日本公開)が、ニューオリンズの州であるルイジアナ州の綿花栽培が舞台になっていることを考えると、この作品の深み(明るくのどかに見える情景のなかに闇)が見えてくる。
またドガは、アメリカからの帰国後の1874年に、アメリカ出身の画家メアリー・カサットとの出会いと交流が生まれた。彼女との親交は、単に画家同士のシンパシーだけでなく、彼のアメリカに対する意識と無関係ではないかもしれない。
エドガー・ドガ《ニューオリンズの事務所の人々(綿花取引所、オフィスでの肖像)》(1873)
ちなみにドガと同じ印象派の画家エドゥアール・マネは、水兵を志して16歳の時(1848年)にブラジルのリオデジャネイロに行っている。結局マネは、海軍兵学校の入学試験を二度受けて不合格となり、水兵になることを諦めたが、彼はブラジルの経験をとても重要なものと考えていた。死因にまでつながる梅毒を、ブラジルで患うことになったにもかかわらず、ブラジルの経験を良きものとして思っていたということは、ブラジルへの旅行がいかに大きなものだったかを伺うことができる。また、ブラジルへの航海で母親の手紙に添えられたポルト・サント島でのスケッチを見ると、16歳にしてマネらしいデッサンが既に完成されていることに驚く。
印象派とアメリカ(大陸)の関係は、カサットやホイッスラー、ボードレールによるエドガー・アラン・ポーの紹介や、バーンズ・コレクションなども含めて、多面的に考えていくことは興味深いことかもしれない。
エドゥアール・マネ《ポルト・サント島でのスケッチ》(1848)