【活動記録:2008】第2回「ASLSP/夜会議」のレポート 追加」
※蜘蛛と箒の前身となるASPSLの活動記録です。
今回の会で、ある作家の良し悪しをいう際に、「思想があるか/否か」という基準が問題にな ることが幾度かありました。非常に言及しにくいものですが、「思想とはなにか?」「作家が思想を持つとはいかなることか?」という話題について、ニ次会で 話されたことを中心に、ここで簡単にレポートしておきたいと思います。
まず、「思想」とは断言/断定であり、いわば妄想的な側面、つまり信念(信仰)に関わるものだ、という意見がありました(「イズム」であるからこそ、当然 一面的であることを免れないし、一定の限界を持つ)。それは、相対主義や、批判的な吟味、その他もろもろの分析的な懐疑論からは出てこない生産的な実践に 繋がる観念である、と。
『解きほぐすとき』展の展覧会コンセプトが俎上にあがった際、そのコンセプトは、「破壊/解体」ではなく、「再構築」という側面が含意されているというこ とが論点となりました。それは、現代美術(やポストモダン思想)のいわゆる脱構築的な解体作業が、既存の価値の再考を促すことはあっても、結局のところポ ジティヴな意見、もっといえば新たな「創造」を提示することがないという欠点を乗り越えようとする最近の動向と連関している。そしてそれこそが、「今何か つくろうとする者誰しもが直面している、一番大きな問題ではないか?」という問いが投げかけられました。それは単に「好きなようにつくればよい」というよ うな、素朴な「創造への回帰」ではないはず、だから難しい、と。
またある人は、身近な例として、自分の友人が、警官に不審者扱いされ呼び止められても、断固として自分の名前を明かさなかった、という例をあげました。一 方で、そんなことをすれば面倒なことになるのに決まっているのだから、その行動は愚直すぎる、滑稽だと思う反面、他方でこの頑なな行動はある種の「思想」 がなければできないといえるのではないか? と思ったという話です。
ここで別のある人が提起したのが、じゃあ、カフカは、あるいは、セザンヌは思想があったのか? セザンヌの思想とは何か? それはある種の徹底した懐疑論 ではなかったか? というような疑問でした(あるいはセザンヌの懐疑とデュシャンの懐疑では何が違うのか、と問うてみてもいいかもしれません)。「思想」 とは言い換えれば、ある種の「作家性」のことだけれども、もしかしたら、そうとは置き換えられない部分があるかもしれない。なぜならそれは、主体的に選択 しうるもの、選べるものなのかは疑問であるからだ、と。
それを受けて、「思想」とは絶対にある種のフィクションであることを免れえず、「思想を持つ」とは「嘘をつくこと」、そしてその嘘を基点に世界を組み立て ることに近い。つまりそれは、選択しえないものであっても受け入れて基点にせざるを得ない、それが崩れればすべてが瓦解してしまうような「フィクション」 である。「思想=フィクション」が成立するのも瓦解するのも、他者がいるからだ(たとえ自分自身を欺く場合でも、自分を他者としてみないと無理である)、 という発言もありました。
周囲の状況としては、二昔前の不条理小説の常套だった「犯人が何の根拠もなく殺人を犯す=作家が何の必然性(主題、思想)もなく作品をつくる」という(ア ンチ・イズムな)スタンスの人は今は少なくて、「なんとなく根拠はなくはないんだけど、しかしそれを問いつめてもラチあかないから、とりあえず自分が面白 いと思うものをつくる」というスタンスの人がほとんどである、しかし一方でその「面白さ」の内実は議論されないとのことでした。
それに対し「面白ければいいじゃない」という言葉は、自分の主観が即一般化、社会化されうるということをあてにしているわけで、「面白いはずなんだけど、 この面白さ、他の人にも面白いんだろうか?」あるいは「この面白さは10年後の自分にとっても面白くありうるだろうか?」という観点が入ってないと駄目な んじゃないか、という意見もありました。
「思想」が断言(確信)であるにせよ、他者に向けられたものとしてはじめて成立するものだといえるのではないか? というのがその場でのとりあえずの結論でした。
投稿者: 高嶋晋一