【映画】アラン・クラーク監督『エレファント』について(2013)

アラン・クラーク監督の『エレファント』(1989年)というタイトルは、コロンバイン高校で起こった銃乱射事件を扱ったガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』(2003年)を思い出す人も多いだろう。それは間違いではない。なぜならサントの『エレファント』のタイトルは、このクラークの『エレファント』へのオマージュとしてつけられているからだ。そして、類似している部分はタイトルだけでない。二つの『エレファント』で扱われている事件は別のものであるにしても、撮影の手法や説明が省かれた表現と悲劇の描かれ方などで、二つの『エレファント』は結びついている。

ただ、クラークの『エレファント』の方は、サイレント映画と呼んでいいほどセリフがなく(一度だけサッカーをしている少年が短い言葉を発している)、サントの『エレファント』以上に、要素が徹底してそぎ落とされている。内容はIRAによる北アイルランド紛争を扱っているが、作品のなかではそのことを具体的に説明し語られることはない。銃殺の状況だけが淡々と、そして延々と描かれており、商業映画やテレビドラマに見られる一般的なストーリーテリングの手法からはかなり逸脱している。ただし、本作はBBCでテレビ放映されたものである。イギリスの視聴者たちにとって、この設定は周知のことであり、説明されるまでもなく理解できたことなのかも知れないが、この手法のショッキングさはより際立つものであっただろう。

また、その設定はともかく、ひたすらステディカムによる長回しの撮影によって映し出される銃殺される情景。殺人の因果もまったく示されることはない。本作を政治映画としてみたとき、即物的で淡々とした出来事の衝撃力はすごい。しかしこの省略の方法に戸惑いがないかというとわからない。
この作品を政治映画としてみたときに、その図式はあまりに単純すぎる。
もちろんこれが現実に起きたことだという事実性は無視しえない重大な問題である。だが、この作品を見た時にどれほど北アイルランド紛争の実体を考える必要があるかと、疑ってしまうほどである。これは私が日本人であるからかもしれない。
では、この映画は政治的背景よりも殺しのテクニックを映画的に楽しむものとして作られているのかといえば、そうではないだろう。そのような映画の活劇的魅力は、ミニマリストのように平坦な反復として殺人のシーンを反復することで脱臼している。この銃殺の終わらなさと、それに麻痺していく感覚に僕はめまいすら感じた。

銃殺が遂行される直前から直後のわずか1分程度の時間を垣間見ること。たとえば、世界中で起こっている無差別な殺人事件に、もし自分が居合わせてしまったとしたら、報道やフィクションのような心理や状況の説明がなされないまま、理解できないまま、人が殺されていく出来事を目撃するはずである。
2013年2月12日の夜に、グアムのタモン地区で起こったグアム無差別殺傷事件に巻き込まれた人たちのなかで、目の前でなにが起きて、なぜ人が殺されているのかを理解することができた人間は、おそらくあのときいなかっただろう。そういうなかで止めることのできない目の前の惨状を、人はどのように経験するのか。この経験自体は、事件に政治や宗教などの問題が関わっていようとも、それに回収することのできないまったく別のレベルでの経験であり、出来事性だ。理解はそのずっと後にやってくる。

『エレファント』が描く悲劇は、匿名の人間が匿名の人間によって、突然銃弾によって命が奪われていくことをそのまま見ることである。これは、突如起こった無差別殺人やテロを目撃してしまうことに近いだろう。
そして、殺害をアンディー・ウォーホルのシルク・スクリーンのように39分間反復される。この惨劇の反復を見る経験は、ある意味では非常にテレビ的だといえるのかもしれない。少なくともこれはテレビを見ることの反省性を引き出す。私たちは3・11に起きたあの震災や津波の映像を何回繰り返し見ただろう。あの反復と断片的な映像の集積を見る経験は、映画ではなくまちがいなくテレビによるものだ。

また一方で、『エレファント』は、そういった集積された断片の映像であるにしても、単なる反復ではなく、一つ一つの殺人から引き出せる情報には差異がある、ということも留意する重要なポイントである。
クラークの『エレファント』がどれほど現実に起こった事件を再現しているのかはわかっていないが、一連の殺人事件の衝撃に単に目を奪われ言葉を失うのではなくて、この反復と差異によって、事件を分析する手がかりを獲得している。つまり、クラークはわれわれにまだ考える余地を残している。
広角のレンズとステディカムによる長回しの撮影は、事件の時間的なリズムと、殺害現場の風景、犯人と被害者の所作、身なり、年齢、行動や細かな身ぶりが示すものを充分に示している。だから、この映像には、脚本的なレベルでの物語は欠如しているが、出来事としての物語は充満している。

まとめに入ろう。刑事が事件を分析する時、個人的な感情や政治的な立場をはずして行わなければいけないように、『エレファント』は、鑑賞者にそのような分析を強いている。少なくともクラーク自身は、この作品を作る(事件の再現)にあたって、感情的な部分を抑制し冷徹な眼差しで構築することを引き受けている。『エレファント』を観て、テレビのように安易なコメンタリーを付けることは禁止されているとすら感じる。彼は不可逆性/遅れを受け止めながら、仕事を全うしている。それは、不可逆性/遅れを解消するような仕事でも、なんらかの別のメッセージに置き換えるような仕事でもなく、悲劇そのものを見ることであるだろう。

蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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