【映画】 『上海特急』について(2013)

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急』(1931年)は、転向を扱った映画である。厳密にいえば偽の転向を主題とした物語だ。1930年代の内戦下にある中国で、北京から上海に向かう特急電車に乗り合わせた者たちが巻き込まれる事件の話である。そして、マルレーネ・ディートリッヒ演じる「上海リリー」と、英国軍医のハーヴェイ大尉の二人がこの電車のなかで偶然再会する。彼らは五年前に別れた恋人同士だった。ハーヴェイと別れてからリリーは、さまざまな男と付き合い金を貢がせるような生活をしていた。しかし、リリーも自分の淪落による変化の大きさを感じながらもハーヴェイのことを愛し続けていた。そしてハーヴェイも変わらず気持ちは同じであった。しかし、特急列車は叛軍の襲撃にあい、乗客は叛軍にとらわれてしまう。叛軍のリーダーであるチャンは色欲魔として描かれ、高等教育を受けた中国人のフイ・フェイを強制的に犯してしまうような男である。
そんなチャンに、リリーが口説かれているのを聞いて、ハーヴェイはチャンをはり倒してしまう。それによってハーヴェイは囚われ、焼きごてで目をつぶされそうになる。リリーはそれを防ぐために、ハーヴェイと別れを告げ、チャンとともに行動するとこを承諾する。しかし、ハーヴェイは、自らの身代わりとなるためにリリーがチャンについていくことを知らないため、リリーの行為を裏切りと考え激怒してしまう。
結果チャンは、 フイ・フェイに殺され、リリーとハーヴェイは再び一緒に特急列車に乗って上海に向かうが、ハーヴェイの憤りは収まらない。しかし、リリーはハーヴェイに真実を語ろうとも説得しようともしない。何故なら信頼とは、そういう裏切りを越えるものとしてあるべきと彼女は信じているからだ。
きわどい言い方であるが、ハーヴェイにとってリリーが淫売婦になった時点で、汚れた存在として認識し得たはずである。なぜハーヴェイは、チャンとの不義理が許せず、それを許せたのか。おそらくそれはリリーが彼と別れたことで淪落したと理解できたからだろう(これも酷い言い方である)。チャンによるリリーの裏切りが、ハーヴェイを傷つけたのは、それは彼女がハーヴェイではなく、チャンを選んだというところにある。だが、リリーは、ハーヴェイと元の二人の関係に戻れると信じていた。

これをメロドラマに回収するより、もう少し抽象化して考えよう。語らなくてもそれが偽の転向であることがわかるはずだと信じるリリーの信念はどこからくるのだろうか。彼女が語ろうとしないのはなぜだろうか。それがこの映画の主題なのである。
相手を信頼しているからといって、相手を裏切らないとは限らない。相手を絶対的に信頼しているからこそ裏切りの行為を遂行してしまう話というのは、偶然にも先日観た根岸吉太郎監督『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』(2009年)も同じであった。そして、『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』は、敗戦国である日本の戦後直後の過酷な状況が刻印されているが、『上海特急』は戦中の状況下での緊迫した状況が刻印されている。語ら(れ)ない理由はそういう緊迫感のリアリティーから生まれている。
結果として行われる裏切りがなければ、生存を許されない状況下での信頼関係、それは書類的な記述の外部にしかない信用問題である。そのメッセージを読み取れるかどうかというのは、単に精神論的な盲目性を意味しないはずである。相手から発せられる、私にしか通じないメッセージを私は正確に読み取らなければならない。さもなくば誤って、相手を殺してしまうことになる。『上海特急』では、このような類いの伝達の可能性が描かれていた。


蜘蛛と箒

蜘蛛と箒(くもとほうき)は、 芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織です。

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